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朝鮮の歴史


 朝鮮史のはじまり

  朝鮮の歴史は、よく「半万年(五千年)」の歴史と呼ばれます。日本よりもずいぶん古い歴史があるのですから、朝鮮の文化の重厚さもなるほどとうなづけます。また、日本の歴史を考える上で、朝鮮の歴史が切っても切れない関係にあるのも、すぐお隣ですから当然です。


(1)古朝鮮

  考古学の発掘成果によると、紀元前一千年紀に入るころには、朝鮮北部から中国東北部にかけての地域で青銅器文化が発展し、しだいにひろがっていました。この青銅器文化は、朝鮮独自の特徴を持ち、その遺物、遺跡からすると、ロシア領沿海州、中国山東半島、日本の九州に及んでいます。

無文土器(写真)

琵琶形銅剣

細形銅剣  多鈕細文鏡 
                                               タチュウサイモンキョウ 
                                                                                              裏は幾何学的な(円弧など)細かい線によるデザインで、つまみが二、三個つく。

  『三国史記』『三国遺事』(12・13世紀の高麗時代につくられた朝鮮に現存する最古の歴史書)によると、大昔、朝鮮という国が生まれましたが、君主は天から降った神の子と地上の熊の化身の子孫で「檀君」と呼ばれました。その場所は、現在の中国領ハルビン付近とも、白頭山とも、妙香山とも言われ、また、ピョンヤンの東の郊外には昔から檀君のお墓だと言い伝えられてきたところがあります。
  中国の歴史書『史記』『漢書』などによると、紀元前、中国東北部には「扶余」、朝鮮北部から中国にかけては「朝鮮」という国があり、朝鮮南部には辰王がいて諸国を統率していたことがわかります。


(2)古代中国と朝鮮

  朝鮮は古代以来中国文明の大きな影響を受けてきました。『三国史記』によると、殷王朝が滅ぶとき賢人「箕子」が朝鮮へ来て、中国の文明を伝えたとされているのもそのことを示しています。中国が秦・漢古代帝国によって統一されるころは動乱の時代で、朝鮮は漢の武帝によっていったん滅ぼされました。そこに楽浪郡などの四郡(ほかに臨屯・玄莵・真番)が設置され、そのうち楽浪郡が長く残って、後にその南の一部は帯方郡となります。邪馬台国の卑弥呼の使いはここに行ったのです。しかし、このような中国古代帝国の支配は紀元後313年五胡の侵入によって崩れ去り、朝鮮北部から中国にかけては高句麗が強い勢力を持つようになります。ピョンヤンを流れる大同江の南側には遺跡があって、日本の植民地時代に発掘され漢の楽浪郡の跡だとされましたが、これについては現在でもなお議論が続いています。

 


  朝鮮の歴史は、日本の植民地時代に独立運動を押さえるため、独自の特徴ある歴史が全く消し去られ、無いことにされてしまいました。それは現在も日本での考え方の中に生き続けています。李朝実学派の歴史観から始まる朝鮮「国学」の伝統をふまえた朝鮮の歴史は、まだこれからその真実が明らかにされていくことでしょう。

 

*支石墓の分布

  ヨーロッパでいう「ドルメン」。巨石を組み立ててテーブル状に組み立てた墓。 文献で言う古代「朝鮮」王朝(古朝鮮)の時代に、朝鮮北部や中国東北地方を中心にして日本の九州まで広がった、特徴ある古墳の形です。

(分布地図) *南北朝鮮、中国、日本にまたがる「支石墓」の分布地図は、『朝鮮をどう教えるか』(解放出版社)に載せていますので、そこで確かめてください。

 北方式支石墓                                   南方式支石墓

江華島 江華島支石墓 慶尚南道慶尚南道支石墓   

日本の九州各地の支石墓・長崎県原山支石墓群原山支石墓群

 


(問い)歴史の教科書で朝鮮の最初がどう書かれているか調べて、その書き方で朝鮮の歴史がよくわかるものかどうか、考えてみましょう。


朝鮮から日本へ 
渡来人と渡来文化……朝鮮三国時代の文化と日本

  今から二千年前、朝鮮海峡(今の対馬とプサンの間)にも関門海峡(本州と九州の間)にも国境があったわけではありません。人々は自由に往来し、交易し、戦いあっていました。やがて現在の奈良県を中心に「大和政権」が勢力を広げ、日本列島の九州より北、東北地方南部までの地域を統一する間の時期(日本史でいう「古墳時代」「飛鳥時代」)、朝鮮にはおもに三つの国があり「三国時代」と呼ばれます。この日本での古代国家形成にあたって必要とされた先進文明のにない手は、朝鮮三国から渡来した多数の人々をぬきには考えられません。

(1)朝鮮の三国時代 紀元前後−7世紀   王冠


地図     高句麗 百済 新羅 伽耶

高句麗好太王碑(写真)

高句麗古墳壁画 舞踊塚壁画

新羅王の金冠(右)勾玉(まがたま)が付いている

新羅の石窟庵(写真)
 


(2)日本の中の朝鮮からの渡来文化

埼玉県入間市高麗神社(写真)

大阪府枚方市王仁公園(写真)

大阪市西区阿弥陀池と長野県長野市善光寺(写真)

山口県大内氏系図(写真)

聖徳太子と新羅花郎道(山岸涼子『日出処の天子』漫画)

*騎馬民族征服王朝説

  日本列島を統一した「大和政権」は、朝鮮から渡来した騎馬民族の王によってつくられた、という説があります。その説によると、三世紀末ごろ朝鮮南部の伽耶地方(任那)にいた辰王の子孫ミマキイリヒコが日本に来て大王となった(崇神天皇)と考えられ、邪馬台国の時にはなかった馬具の出現などがその証拠とされています。最近韓国南部で前方後円墳が発見され、日本国内の「天皇陵」発掘への期待も高まっています。

*任那日本府説

  『日本書紀』には、むかし神功皇后という女王が海の向こうの「金銀の豊かな」国新羅を攻めたことが記されています。また、任那地方の国々は大和政権に従属し、「任那日本府」が設置されたと書かれています。朝鮮の『三国史記』にも新羅を攻撃する「倭」のことがしばしば記録されており、その戦いの様子は確かめられますが、「大和政権の任那支配」については記録になく、それを示す遺跡も発見されていません。日本の記録にいう「任那」は朝鮮では「伽耶、加羅」と呼ばれ、その地域はやがて新羅の一部となります。他方、六世紀には九州が一時大和政権から離れて新羅と手を結び(「磐井の反乱」)、また『八幡愚童訓』には新羅の軍船が須磨(神戸市)まで攻め寄せたと記録されています。


(問い)学校や家の近くの古い寺院や神社のほか、土地の伝説などで、古代の朝鮮とのつながりがないか調べてみましょう。


(3)高句麗と隋・唐の戦い

  4・5世紀の朝鮮と東北アジアでは高句麗が大帝国として君臨していました。好太王(広開土王。391-412)や長寿王(412-491)の時がその全盛期で、やがて中国の南北朝の分裂を統一した隋は煬帝(604-617)の時この高句麗を攻撃するために百万という史上最大の軍勢を送り込みます。また、次の唐の太宗(626-649)も攻撃をくりかえします。しかしこれらは高句麗の堅固な山城による抵抗と騎馬軍団の反撃によってことごとく失敗し、特に、侵入した隋の大軍を破って隋滅亡のきっかけをつくった大将軍乙支文徳の名は後々まで語り継がれました。

(問い)隋の煬帝が高句麗遠征の準備を始めた607年と、唐の太宗が高句麗を攻撃した645年に、倭(日本)でどのような出来事があったか調べて、それが当時の朝鮮や中国とどのように関係しているか考えてみましょう。

  三国時代の百済と高句麗は、最後には唐によって滅ぼされてしまい(668年)、唐の安東都護府がいったん朝鮮に設置されますが、それはすぐに撤退します。こうして、朝鮮南部は新羅が三国を統一し、北部には渤海が勢力を広げて、ともに貴族文化が栄えることになります。



「ソロンゴス(虹の国)」高麗と「蒙古襲来」

  モンゴルの砂漠や華北の平原からすると、朝鮮の地の緑と澄んだ河川はどれほど麗しく見えたことでしょう。モンゴル人はその地を「ソロンゴス(虹の国)」と呼びました。また、当時の国名「高麗(コリョ)」がマルコ・ポーロによって西洋に伝えられ「Korea」(コリア)という呼び方のもとになったのです。

(1)高麗王朝と武臣政権

  新羅と渤海の貴族文化の繁栄は、10世紀はじめ中国の唐王朝の滅亡とともに終わりを告げました。開城(ケーソン)の豪族王建によって建国された高麗は、分裂していた地方豪族たちをあわせ、旧新羅や渤海の貴族を受け入れて統一国家となりました。高麗とは古代の高句麗を受け継ぐものです。(かつての高句麗もその後半期には高麗と呼ばれました。)

  当時は王都開京(開城)に、貴族の邸宅とともに多くの寺院が建ち並ぶ仏教の全盛時代で、『大蔵経』の出版がくりかえしおこなわれました。しかし反面、燃灯会や八関会のような国家祭儀に見られるように、朝鮮固有の信仰もそこに一体化しています。このころ、まだ一般の民衆には「姓」はなく、死刑制度も事実上おこなわれない穏やかな国情であったということです。

  12世紀末、身分制度の動揺と地方豪族の力を背景として、武臣政権が樹立されます。(王の下の官僚は「文班」文官と「武班」武士・軍人に分けられ、そのうちの後者を武臣と呼びます。また、この二つをあわせて「両班(ヤンバン)」と呼びます。)
高麗国王のもとで実権を持った崔氏の武臣政権(1196-1258)はその直属軍として「三別抄」という軍団を持っていました。中国の北方に起こったモンゴルが襲来するのはこの時期のことです。

*高麗版大蔵経

(写真)

世界のお経を集め、木に彫って出版した。現在でも仏教を研究する際の基本となっており、1251年に完成した八万枚の版木が伽耶山海印寺(慶尚南道)に保存されている。また、高麗時代の仏画や梵鐘は多数日本に伝えられている。

*高麗青磁  

最初中国の宋の影響を受け、やがて翡翠色のうわぐすり(釉薬)、象嵌の文様によって独自の発展を遂げ、東洋陶磁の美の一つの頂点を極めた。
 

*金属活字金属活字

  13世紀に世界最初の金属(銅)活字による書物の出版が行われ、以来19世紀に至るまで独自の活字印刷技術が発展して、周辺諸国の人々をうらやましがらせた。(ヨーロッパでグーテンベルクが活版印刷をはじめるのは、16世紀のルネサンス時代のことです。)
  朝鮮の活字印刷は、ちょうど近代のタイプ印刷のように、政府の公文書の正式な形式として使われました。従って、大量の印刷物の普及につながった西欧の場合とは違い、限られた範囲の工芸品的な文書や書物の制作に役立ったものです。その技術は近代にまで及び、20世紀初頭にも、美しい朝鮮活字印刷の書物が作られています。

  豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、この活字は日本にももたらされ、一時日本でも朝鮮活字による本の制作がおこなわれましたが、江戸時代にはこの技術は消えてしまいます。明治はじめ、長崎の本木昌造は、この朝鮮の活字をも参考にして、日本で最初の近代的活字印刷を始めることができたのでした。


(2)モンゴルの侵略

  1231年に始まったモンゴルの襲来は以後ほぼ毎年のようにくり返され、特に1254年には無数の死者と20万人の捕虜とを出す事態となりました。これに対して江華島に都を移した国王と崔氏武臣政権を中心にして、民族をあげた四十年間に及ぶ戦いが続けられ、1259年に国王が降伏した後も、「三別抄」が珍島や済州島を拠点に抵抗を続けます(1273年まで)。この結果、高麗王朝は滅ぼされることなく 存続し、1274年からの日本への「蒙古襲来(元寇)」にも大きな影響が出ることになります。
  日本では、この後モンゴルも高麗も「異国」としておそれられ、泣きやまぬ子どもに「そんなことをしていると恐ろしいモグリコクリ(モンゴルとコクリョ=高句麗、高麗)が来るよ」と言って黙らせる地域もありました。
この時期の高麗には、また、元から朱子学という新しい儒教や木綿が伝えられて、後の朝鮮社会に大きな影響を及ぼすことになります。

  こうして、新しい社会が形造られようとする機運の中で、将軍の一人李成桂が朝鮮王朝を開きます。

地図 モンゴルの侵入
   開京、西京、東京、江華島、珍島、済州島
   日本への「元寇」
 

(問い)昔から日本では、「神風」が吹いたことによって「蒙古襲来」を防ぐことができたと言われてきましたが、四十年間をこえる高麗とモンゴルの戦いが、この日本への「元寇」の結果とどのように関係するか考えてみましょう。



世宗(セジョン)大王と東アジアの交流

  15世紀の朝鮮、首都の漢城(漢陽ともいう。現在のソウル)景福宮で、群臣の居並ぶなか、壮大な音楽が演奏されて人々は感動の余り涙を流したと伝えられています。この時の音楽監督が朴  (パギョン)、また、この頃の朝鮮音楽を集大成したものに成俔(ソンギョン)の『楽学軌範』があります。この朝鮮雅楽の伝統は現在もなお受け継がれているのです。
  また、同じ頃、王子安平大君が夢の中で見た桃源境−−桃や李の花の咲く、東アジアの人々にとっての理想境−−を、当代最高の画家安堅(アンギョン)が絵に描きました。それが「夢遊桃源図」です。

安堅「夢遊桃源図」天理大学図書館蔵(部分) 安堅

朝鮮通宝 朝鮮通宝 世宗時代につくられた朝鮮の貨幣で、良質精巧なことで知られる。

首善全図(写真) 李王朝の首都漢城の地図

 

(1)世宗大王の時代

  李王朝代第四代の国王李  (リド。1418-1450)は「世宗大王」と呼ばれる名君で、政治制度が整備され国力が充実した黄金時代をつくりあげました。それは、高麗時代以来の朝鮮社会の発展の上に独自の制度、文物が完備され、絶頂に達したものです。

 1 集賢殿という役所を設置して優れた学者たちを結集しました。彼らによって「訓民正音」(後の朝鮮文字ハングル)が作られ、発布されます(1446年)。

   2  議政府という合議機関の力が低下して、国王が六曹という六つの行政官庁を直接指揮するようになります。

   3 豆満江・鴨緑江に沿った北部国境領域が確定され、また、南では倭寇の本拠地対馬への攻撃(1419年)をおこなって、中国(明王朝)・日本(室町幕府)とのとの対外関係が整備されます。

   4   安堅の絵画・朴  の音楽が朝廷の人々を感動させます。また、金属活字による印刷もますます精巧なものになっています。

  首都漢城のありさまを見れば、川(漢江)を南に見て、北の背後にはけわしい山をひかえ、城壁で囲まれた市街の外側にも、山や谷を取り込んだいくつかの山城をもつ、古代高句麗以来の固有の伝統が生きています。

  この時代にはまた、朝鮮独自の農業方式−−乾燥農法を主体にしつつ、日本とは違って不安定な梅雨時の降雨をも利用した田植えをもおこなう−−が確立し、全土に普及していきました。

*景福宮の宮殿は1592年に焼失しましたが、1870年に再建され、現在もソウルにあります。安堅の絵は、日本の鹿児島で長く伝えられてきており、豊臣秀吉の時期に日本にもたらされたものと考えられます。
 

(2)15世紀の東アジア

15世紀地図 

  国王のもとでの中央集権的官僚国家が、朝鮮でいち早く成立して繁栄したのに対し、当時の日本では、室町時代の一時期を除いては、南北朝から戦国へ、分裂と混乱の時代が続きます。この頃の北九州や瀬戸内の豪族の中には、朝鮮や中国の海岸で「倭寇」と呼ばれる海賊となる人々もありました。

  しかし他方、日本海沿岸の豪族や西国各地の大名は、朝鮮の進んだ文物を取り入れようとして、朝鮮の朝廷に朝貢するという形で貿易することを願ったのです。15世紀、十三湊(とさみなと。現在の青森県十三湖)の安藤(安東とも書く)氏と思われる豪族が、みずからは「日の本将軍、夷千島(えぞちしま)王」と名のって朝鮮に朝貢しています。

  また、当時は独自の王国だった琉球(現在の沖縄)は、朝鮮とも盛んに交易する かたわら、東南アジア全域との貿易で繁栄していました。16世紀にはいると、 やがてそこに、見知らぬ南蛮船−−ヨーロッパの船が姿を現すようになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

  混壱疆理歴代国都之図(部分) 龍谷大学図書館蔵

     右側が朝鮮、その下の小さな島国が「島夷」日本。

     当時の地図から「東国」朝鮮の自国意識がわかる。     





朝鮮王朝の政治と「倭乱」・「胡乱」

 

(1)両班(ヤンバン)−−朝鮮王朝の支配階級

  16世紀の朝鮮では、儒教、なかでも朱子学の教えにもとづいて節義を尊び、人間の心の内面をつきつめて研究する新進気鋭の人々が地方に続々と現れます。彼らは、ソンビと呼ばれる村落の指導者で、都に出て(科挙という試験を受け)王権のもとに結集していったのです。李退渓(リテゲ)と奇大弁(キテビョン )の間で人間の倫理をつきつめる大論争がくりひろげられたのもこの頃です。彼らは各地方に書院と呼ばれる学校を建て、村の子どもたちは書堂(ソダン)で文字の読み書きを学ぶようになります。また、郷案(ヒャンアン)という名簿に従って各地域の支配階級が構成され、朱子学にもとづく郷約が定められて人々はその規制に服従します。儒教はこうして朝鮮社会の隅々にまで根をおろし、儒教による祖先の祭り(祭祀。チェサ)が尊ばれるようになったのです。族譜という男系宗族一門の系譜が整備されるのもこの頃からのことです 。

   他方、仏教は山の中の寺院で独自に維持されるにとどまり、また、古来の巫(フ。神がかりになって踊りながら神のお告げを人々に伝える、シャーマン)に対する信仰は、女性の間や非公式の場で根強く受け継がれていきます。

  このような支配階級は、国王の下での官僚として文班・武班に分かれて仕えることが期待されることから、「両班(ヤンバン)」と呼ばれました。また、「両班」の下には技術者などの「中人(チュンイン)」がおり、一般民衆は「常民(サンミン)」で、さらに下には「賤民」があって、僧侶や巫、白丁(ペッチョン)と呼ばれる人々はそこに位置づけられました。

書院の朝鮮建築(写真)

壬辰倭乱・丙子胡乱地図
 

耳塚(京都市)(写真)
日本武士軍は朝鮮側捕虜の耳や鼻を削いで秀吉のもとに送り、手柄の証明にしました。

亀甲船(写真)
 

(問い)韓国の社会、朝鮮人家庭の特徴として、老人・年配・年上の人を敬うこと、公式の場での男性優位(男尊女卑)の傾向を挙げる人がいます。それはなにからくるのか考えてみましょう。


(2)壬辰倭乱−豊臣秀吉による日本武士軍の朝鮮侵略 1592−1598年

  「仮道入明」(中国の明に攻め込むために朝鮮に協力を求める)という名目で突如釜山(プサン )に上陸した日本武士軍は、わずか20日で都漢城に攻め込みます。日本側は緒戦の大勝利をおさめたわけです。しかし、最後には、日本軍は朝鮮東南端海岸の城にたてこもって兵糧を絶たれ、秀吉の死とともに先を争って逃げ帰ることになります。その経過で、重要な点は、次の三つです。

 1 朝鮮全土の民衆が山城にたてこもり、「義兵」となって日本側と戦ったこと。各地の「士林」がリーダーとなったのはもちろんのこと、僧侶や女性などの活躍も語り伝えられています。
 2 李舜臣(リスンシン)の率いる水軍が閑山島沖海戦などで日本水軍を打ち破り、制海権をにぎったこと。朝鮮水軍では、「亀甲船」という新型軍船が活躍しました。
 3 中国明王朝が援軍を派遣して北から圧力を加えたこと。 日本軍の中からは、朝鮮の文化を慕って朝鮮側に加わり朝鮮人となった人々もたくさん出ました。沙也可(さやか)という日本の武人が金忠善と名のり、その一族は今も大邱(テグ。慶尚北道)の近くに残っています。
宋時烈像 

  当時、朝鮮の「士林」の優れた精神文化は日本の先進的な知識人にとってはあこがれのまとでした。千利休が山崎(京都府大山崎町)に造った茶室待庵には朝鮮建築の影響が大きく、京都の「楽焼(らくやき)」も朝鮮人工人の手になり、朱子学はこの後藤原惺窩によってはじめて日本に広められ、日本の武士たちは朝鮮の陶磁器を、書物を、金属活字を、芸術作品を、奪い合ったのです。
  鹿児島県苗代川には、この時連れてこられた人々の子孫が日本人となって住んでいて、第14代の沈寿官さんはそこで「薩摩焼」の伝統を守っています。


(3)丙子胡乱−清軍の朝鮮侵略 

  1636年 中国東北でのヌルハチの勃興に対して当初は比較的柔軟に対応していた朝鮮は、1623年、国王仁祖のもとで、あくまでも明王朝と結び清との戦いを辞さぬ新体制を樹立します。しかし、1636年、大挙侵入した清軍に敗北して、国王はたてこもった南漢山城(ソウルの南山)から下りて降伏し、王子たちは遼東へ連行されてしまいます。後に帰国した世子(王太子)は清に妥協したとして殺害され、代わって王位を継いだ孝宗は「北伐」−−明を救援して清と戦う準備を進めます。この計画は、結局実現できぬままに終わりますが、表面上の清への臣従と、清を建国した満州女真人を野蛮視したことからくる屈辱と屈折、その中で人間の倫理と国家の正統性をどう保持するかをめぐって、党派間の党争、相互の処刑、流血がくり返されることになります。朝鮮の士林は、こうして、朝鮮こそが東洋文化の精華を唯一継承する「中華」であるとの意識を持つようになるのです。
 

宋時烈(ソン・シリョル)像 
 国王孝宗と「北伐」(清との戦い)の密議をこらしたという、「老論」の始祖。肖像の右に1651年の宋時烈自身の自警の語が記され、上には宋時烈の節義を讃える1778年国王正祖の御製が書かれている。それらの年はいずれも「崇禎紀元後」と、清の年号を拒否した明の年号で記されている。

(問い)司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』を読んで感想を述べあってみましょう。



士林と実学  近代前夜18世紀の朝鮮

  18世紀の朝鮮は国王英祖(1724-1776)・正祖(1776-1800)の時代、李王朝の中興期で、この頃盛んになった新しい学問を「実学」と呼びます。それは、国家の正統的な教えである儒教、その中の朱子学から出て、特に「実際の役に立つ学術」だという意味です。清王朝の首都北京への使節を通じてもたらされた西洋の学術もその中に含まれます。
  他方、各地方にあって、朱子学の理想を文字通りに実践しようとする農村の指導者たちの中にはあくまでも理想に殉じて世間の地位や名誉を求めぬ人々もおり、そのように野にある人々を「士林」と呼びます。彼らの理想像は、14世紀末に李王朝の創始者李成桂と対決し、高麗王室への忠義を貫き通して殺された鄭夢周(チョンモンジュ)でした。

(1)国王英祖(ヨンジョ)と思悼(サド)世子−−1762年の悲劇

  周囲の期待を一身に受け、儒教にもとづく英才教育を小さいときから強要された王子(王位を継ぐ王子を「世子」と呼ぶ)は、父王からしかられてばかりなのに耐えきれず、朝の着替えにもぐずぐず手間どるようになります。不幸な青年期を経て、ついに心を病んだ王子は、周囲の人に見さかいなく暴力をふるい、殺人をくりかえすありさまでした 。

  父王は問います、「なぜ人や動物をむやみに殺すのか」。王子は答えます、「お父さんが私を嫌っているから、それに、ああどうしたことだろう、いつもしかってばかりいるお父さんがこわくてこわくてたまらない。私はそれで心がおかしくなってしまっている」。

  床の穴に寝起きしてうろつく王子も、時には正気に戻って、儒教の古典を暗誦することもあるのです。
  父王はついに王子を呼びだし、自殺を迫ります。「私が先に死ねば王朝が滅ぶ。おまえが先に死ねば王朝は救われる。おまえが死ぬ方がよい」。

  父王の服のすそをつかんで「早く殺して」と泣き叫ぶ王子を、父王は小さな米櫃(こめびつ)に閉じこめ、二十二日後王子はその中で息をひきとりました。英祖は後にこのことを深く悔やみ、そして、この悲劇の王子「思悼世子」の遺された子どもが、次の国王正祖となったのです。

英祖大王御真(肖像画写真)

(2)朝鮮の政治の特徴       

    金弘道「水原行幸図」(部分) 18世紀 国王の行列とそれを眺める人々

国王水原行幸図 

  当時の日本が「幕藩体制」と呼ばれて藩の大名ごとに別々の政治が行われていたのに対して、中国や朝鮮では君主が直接派遣する役人が全国をおさめていました。しかも、中国(清)が満州女真人の異民族の君主に支配されていたのに対して、朝鮮は自民族の伝統を継続して保っていたことになります。

  近代前夜には、このような君主独裁政治の矛盾がさまざまに現れてくるのです。

 

 

 

 

 

(3)朝鮮社会の変化と実学

金正喜李朝末期の実学者金正喜(キムジョンヒ。号は秋史、阮堂。1786-1856)肖像(部分)
李漢拮1857年

                                 『春香伝』刊本      

春香伝  

   当時の朝鮮では「常平通宝」という銅銭が大量に流通し、貨幣経済が進みます。租税の取り方も、個人単位に課税するのではなく、土地の面積をもとに徴収する「大同法」というやりかたが全国でおこなわれ、地方には江景・元山・三浪津など新しい都会が生まれ、農民や商工業者の中からも裕福な新興勢力が現れてきます。こうした人々から、科挙を受験して都に上り官僚となる人が多数出るようになります。

  ハングルが普及し、パンソリ(朝鮮の楽器に合わせて唱いながらする物語)『春香伝』や『沈清伝』がハングルの書物となって広まります。民衆の間から仮面劇も発達します。

  『春香伝』は、全羅北道南原(ナムウオン)を舞台に、両班の青年李夢龍と妓生(キーセン)成春香が身分を超えた愛を貫く物語です。実学の巨匠の一人朴趾源(パクチウオン)は『熱河日記』の中の「両班伝」という小説の中で、両班という身分を笑い飛ばし、痛烈に批判していますが、これらは当時の朝鮮社会の変化を表しています。

  この頃、国王正祖の厚い信任を受けた大学者の一人が丁若*(金偏に庸)(チョンヤギョン。号は茶山。1762-1836)で、彼が実学の最高峰と言われます。

  丁若*は貧富の差が激しくなった当時の社会に対して、国王のために「閭田(りょでん)制」という農業政策を提案します。「閭」という共同体の人々が一緒に働き、その成果を労働日数に応じて平等に分配するというその考えは、後の西洋の「空想的社会主義」に通じるものとも評価されます。彼は、19世紀に入ると、天主教(キリスト教)弾圧に伴って南部の海岸に流されますが、そこにもまた教えを請う人々が集まったということです。

  やがて旧体制の行きづまりから、平安道農民戦争や晋州民乱など民衆の反乱が起こり、その中に、禁止されていたキリスト教や、「人すなわち天」の教義を掲げて新しく起こった「東学」という教えが広まっていきます。まさに、朝鮮の中から、新しい時代に向けた動きが始まっていたのです。


申潤福  



(問い)

 『春香伝』の物語を聞いて、朝鮮人なら誰でも知っているこの物語の結末(ソウルで出世して高い地位に昇った李夢龍が国王の命令で地方の政治を監視する暗行御使となり、乞食の姿でソウルから南原にもどって悪代官の屋敷に乗り込み、「このしるしが目に入らぬか」と身分を明かして、とらえられていた春香を助け出す)が、日本のどんなお話に影響を与えたかを考えましょう。 



 



 申潤福「蓮池の女人」18世紀

 

 



朝鮮通信使−−朝鮮王朝と江戸幕府の外交

ハングルをあしらった刀のつば(兵庫県篠山市篠山城資料館)(写真)

朝鮮国王の「国書」(写真)

朝鮮通信使の往来経路(地図)

    朝鮮通信使の航路  瀬戸内海(リンク 海上保安庁)

朝鮮通信使絵巻(写真)日本側の用意した川舟で大坂の淀川を溯る通信使

(1)近代以前の東アジアの外交関係

  かって室町幕府の足利将軍は「日本国王」として朝鮮とも外交関係を持ち、貿易をおこなっていました。その室町幕府が衰えた戦国時代から豊臣秀吉の朝鮮侵略までの中断を経て、江戸幕府が日本の統一を完成すると、徳川将軍は対馬の宗氏を窓口とし、みずからは「日本国大君」として朝鮮国王との対等な外交関係を結ぶことになりました。
 当時の東アジアでは、中国の皇帝に対して他の国々は一段へりくだった形式で外交関係を結び、それを「事大」(大国につかえる)関係と呼んでいました。他の国々が中国に朝貢(みつぎものを持ってあいさつに行く)するのに対して中国側はそれらの国々を「冊封」(さくほう。国王としての地位を認める)するという関係があり、また、中国以外の国々どうしでは対等な「交隣」関係があったわけです。−−もちろんこれらは表面的な形式に過ぎず、現代の言葉で言えばそれらの国々が独立していたことは言うまでもありません。


(2)「朝鮮通信使」の意義

  江戸時代を通じて往来した日朝の使節団 のうち、日本からの使節団については、朝鮮側が豊臣秀吉の侵略にこりて警戒を ゆるめなかったため、東莱(トンネ。現在のプサン)までしか入れず、都のソウルまでは入れてもらえなかったのに対して、朝鮮からの使節は、瀬戸内海を経て大坂に上陸、淀まで川船でさかのぼって江戸までの道を日本側の手厚い接待を受けながら往来しました。(第12回目、1811年に最後に日本に来た使節団は、対馬までになりました。)これを「朝鮮通信使」と呼びます。

  このことがもつ意義は次の三つです。

  1  朝鮮と日本がお互いに完全に対等なパートナーとしての外交関係を持つただ一つの国であったこと。後に、日本が幕末に開国する際には、この朝鮮との関係が、タイクン(大君。将軍は外国に対してはこう称した)と諸外国との外交関係の基準とされました。

丁銀    2  江戸時代の初期には朝鮮と日本の貿易は巨額にのぼり、朝鮮の木綿(「モメン」と読む)が大量に日本に輸入され、やがて日本でも国産化が進むこと、また、高麗人参は最高の貴重薬とされ、他方、大量の銀が対価として朝鮮に入ったこと。(年によっては、日本で産出する銀のうち8%が朝鮮に支払われることがあった。)貿易の実務に従事したのは対馬藩の人々で、対岸朝鮮の「倭館」(プサンにあった貿易居留地)と往来していました。後に明治時代になっても、対馬の小学校では朝鮮語が教えられていたのです。

  3  毎回400名を越す大使節団が、日本にとっての文化交流の大きな機会になったこと。儒教の国、国王の下の統一王朝国家、学問にもとづく官僚制の朝鮮使節団は、日本の知識人にとっても、庶民にとっても、あこがれと興味、好奇心のまとでした。上下をあげての使節団の見物に、また交流に、人々が殺到したのはこのためです。日本の学者のねうちもこの時の朝鮮人の評価によって定まり、彼らは自分の藩や学派の名誉をかけて競い合いました。

 

 「人参代往古銀(ニンジンダイ・オウコギン)」 当時日本で朝鮮貿易専用に特別に鋳造された良質な丁銀(銀80%)

(3)江戸後期の日本と朝鮮通信使

  1811年(朝鮮の純祖11年、日本の文化8年)に来日した通信使に対しては、対馬で国書交換の儀式や接待が行われました。

  従来からも、通信使の改革を考える動きはありました。日本側が朝鮮使節を首都の江戸まで迎えるのに対して、日本の使節は釜山までしか行かないこと、また、対馬から江戸までの送迎の応接に巨額の費用がかかることがその理由です。

 江戸時代後期には、朝鮮・日本とも財政にゆとりがなくなったことから通信使は延期され続けていました。また、日朝貿易が衰退し、財政困難におちいった対馬藩が、自分の藩の中での儀式実施によって幕府のお金を受け取り財政の助けにしようとしたこともあって、対馬での儀式が行われることになったのです。(これを「易地聘礼」と言います。)

 朝鮮では、実学のリーダー李*が「朝・日の使節がそれぞれ互いに都にまで往来し、無駄やごまかしをはぶくことができれば、気持ちも通じ合い、信頼も深まる」と述べています。しかし結局、雨森芳洲が日本と朝鮮のきずなをしっかりとまもった時代の後、改革はなされないままで終わります。この間朝鮮でも朝鮮独自の考え方を主張する「実学」が発達し、一方日本では、「国学」と呼ばれる日本独自の伝統を重視する考え方が広がりはじめました。

 こうして、1811年の後は、1876(明治9)年になって朝鮮修信使が東京に来日するまで、日本と朝鮮の使節往来はとぎれてしまいます。朝鮮も日本もおたがいの事情が分からないままに、新しい時代を迎えることになってしまうのです。

 もちろん日本ではその間にペリーがやって来て、幕府は欧米諸外国と国交を結ぶことになりますが、そのモデルとなったのも朝鮮外交の形式でした。一方、幕末には天皇の政治的役割が復活し、「攘夷」の風潮の中で、「皇国」「神国」日本を主張する自国本位の考え方が広まっていきます。

参考 『近代日鮮関係の研究 下 』朝鮮総督府中枢院(田保橋潔著) 昭和15年

*は、さんずいへんに翼、の漢字

 

(4)近代以前の外交関係の終り

  朝鮮と日本の関係は、天皇を中心にすえた明治新政府の誕生によって転機を迎えます。
  日本は朝鮮に「皇」の字を使って外交文書を送りつけ、朝鮮側はこれを非礼としてはねつけます。(「皇」の字を使うと、一段上の立場になる。)当時朝鮮は、江華島に攻め込んできたフランス軍やアメリカ軍を撃退し、東洋文化の中心としての立場を貫く独自の方針を取っていましたが、一方では、朴珪寿(パクキュス。朴趾源の孫にあたる)の下に集まった金玉均(キムオッキュン)ら若きエリートたちによる「開化派」のグループも生まれていたのです。

(問い)学校や自分の町の近くに江戸時代の「朝鮮通信使」のあとが残っていないか調べてみましょう。

(問い)1876年に朝鮮修信使が東京に来たのには、どのような経過があったか調べてみましょう。



朝鮮の開化と伝統思想
 

 鄭夢周像 鄭夢周(チョンモンジュ、号は圃隠)像  李漢拑

 1880年(中国清の年号で光緒6年庚辰)李漢戮肖像画を写し、洪英植が題を書きました。そこには「員船館にて」や「海隣論世の室」の言葉もあります。


 1880年のこの年、朝鮮王朝を背負うべき若きエリート洪英植(ホンヨンシク)は26歳、また、金弘集(キムクァンジプ)を正使とする第二回修信使が日本へ派遣され、米国との国交樹立をも模索しつつ、8月11日に釜山へ帰着したばかりでした。(日本では明治13年に当たります。)

 国王高宗は、この直後から、新しく統理機務衙門を設置し、洪英植をふくむ「紳士遊覧団」60余人を日本に派遣留学させ、堀本少尉を招聘して新式軍隊「別技軍」を編成、また、技術者や学生38人を清国天津機器局に派遣しました。こうして、「開化」への第一歩が踏み出されることになります。

 その中心に、閔泳翊(ミンヨンイク)・洪英植・金玉均・朴泳孝(パクヨンヒョ)らがいました。

 「清の元号」と開化、儒教に基づく東アジアの册封体制―従来の国際関係と近代国家の外交、これらについて、「海隣」の「閔氏員船館」でどのような「論世」が行われたかは明らかではありません。しかし、その彼らの精神的バックボーンこそ、高麗朝の旧臣、「東方理学の祖」鄭夢周なのでした。





(問い)上の閔泳翊は1884年に瀕死の重傷を負いました。洪英植・金玉均・朴泳孝がその後どうなったかについて調べてみましょう。1882年と1884年、1894年のことは教科書にも載っています。
 日本の明治維新の時の、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・西郷隆盛などと比較してみるのもおもしろいでしょう。

 

 

 

              参考文献

梶村秀樹 『朝鮮史』 (講談社現代新書)

申采浩 (矢部敦子訳) 『朝鮮上古史』 (緑陰書房、1983)

信太一郎 『朝鮮の歴史と日本』 (明石書店、1989)

梶村秀樹・印藤和寛 『朝鮮史のあけぼの』 (三一書房、1998)

Bruce Cumings  『Korea's place in the sun: a modern history』 (NewYork:Norton,1997)

Vincent S.R. Brandt  『A Korean village between farm and sea』 (Harvard University Press,1971,reprinted by Waveland Press,Inc., 1990)

辛基秀・仲尾宏  『図説 朝鮮通信使の旅』(明石書店、2000)