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| ■謀叛を取り巻く人々【高山飛騨守・右近】 |
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村重に関する史料は極めて少ないのですが、彼を取り巻く人物を観察することで、彼等から
見た村重の人間性を探り出してみることが出来ます。ここでは、村重の謀叛に直接関わった人
物を取り上げ、彼等と村重の関係について確認していきます。 高山父子は和田惟政の家臣でしたが、惟政が亡くなると、その子惟長が高槻城を支配する様 になります。ところが、惟長の力量に限界があることを悟った家臣達は、その信望を高山父子 に集中させます。惟長は反キリシタンでもあった為、高山父子他多くの家臣との争いは時間の 問題でもありました。 惟長は後見の叔父和田惟増を殺害すると、天正元(1573)年3月に軍議を開くと偽り、 高山父子をも討ち取ろうと画策しました。 フロイスは、この事件を「少からず驚かるべき他の不思議なる事件」と述べています。何故 なら、高山父子がこの争いに関し、敵である筈の村重に相談を持ちかけたからです。当時、茨 木城を居城としていた村重は、惟長を討ち取るべき旨を主張し、その為には援軍協力も惜しま ず、もし討ち取りに成功すれば、高槻領2万石を与えることを約束したといいます。 しかし、このフロイスの記述には誤りがあります。記述通りだと、村重はこの時既に、信長 から摂津国全領を与えられていることになりますが、村重が信長に拝謁をしたのは3月28日 で、惟長討ち取りの日よりも約2週間も後のことです。摂津守になる為には、拝謁後、更に月 日を要していることから、この記載が事実と異なっていることが理解出来ます。当時、村重は 形式的であれ、池田家の家臣であったことから、高山氏に領地を与えるだけの権限を持ってい たとは考えられません。 高山父子が村重を頼ったことに関しては、和田惟政が池田領を圧迫し、領地拡大を狙ったこ とと同様に、彼等はキリシタン信者である前に、戦国乱世を生き抜く武将です。下剋上の戦い により地位の向上を図ることは、特別な行為ではなかったし、摂津の有力者村重を頼ることも、 戦国を生き抜く為の一般的な選択でした。 彼等が村重を頼った理由として、村重がキリシタンであったからという説があります。池田 家の中では、丹後守教正がキリシタンとして活躍しています。永禄12(1569)年、フロ イスが堺から京へ移動した際、彼の荷物を運ぶのを助ける為に、教正は10名の家臣を派遣し たといいます。その家臣の具体的な記載はありませんが、池田家にも、キリシタン信者が少な からず存在していた様です。従って、村重がその何らかの影響を受けていた可能性は考えられ ます。しかし、フロイス書簡にも「領主(村重)は収入及び所領多く甚だ強勢なる異教徒なる」 旨を明記していることからも、村重がキリシタンでないことが分かります。 ただ、村重がキリシタンの良き理解者であったことは証明出来ます。天正5(1577)年、 信長が雑賀討伐を完了して暫く経った頃、京にいた信長の下に、法華宗の人々が、パアデレの 追放を請願に来ました。そこには、諸将が座し、村重もその中にいました。信長は彼に、キリ シタンに関する所見を求めました。その返答は、フランシスコの書簡に「我等の教に付きては 弁明すること能はざれども、其の知る所は彼(村重)の部下のキリシタンが皆著しく従順なる ことなり」と纏められ、村重は更に、デウスの教え並びに信者に付いて多くの賛辞を加えまし た。 諸将はもとより、信長も同意見だとして法華宗の請願を却下しました。信長のキリシタン保 護の態度を明らかにしたのは、村重のキリシタン保護策に拠るところが大きいとされています。 話は戻りますが、天正元年3月11日、惟長は高山父子によって退けられました。高槻城を 手にした高山父子は、以後、村重と行動を共にすることとなりました。しかし、村重が信長に 反旗を翻すために、たならぬ苦しみを体験することになります。 右近は信仰上、村重が信長に反旗を翻すことには、当然の如く反対しました。しかし、彼は それでも真の主君は村重であることを主張し、人質として妹と三歳の息子を差し出すことによ って、二心なきことを誓いました。村重は彼の誠意を感じ取り、信長に詫びる為に安土へ向か おうとしました。しかし、決戦をいどまなければ有岡城を占拠する、という中川清秀の強い態 度を抑えることが出来ず、信長に敵対することになりました。 高槻城は、右近の采配により要害堅固な城に改築されており、流石の織田勢も攻めあぐねる 程でした。ところが、信長の強引な作戦は、宣教師に高槻城へ赴く様命令し、高山父子を降伏 させるべく説得を要請するものでした。説得に成功すれば、益々キリシタン保護に力を入れる が、そうでなければ、教会を迫害し、信者達も磔にするというものでした。 有岡城に人質がいる為、右近は簡単に信長に屈することは出来ませんでいした。右近の父、 飛騨守はその点を強く主張して、最後まで信長に抵抗をみせることになります。 しかし、右近は、我が子の為に、多大な犠牲者を出すことだけは避けなければならないと考 え、父親を騙してまでも降伏するしかありませんでした。 右近は出家を条件に降伏しましたが、信長の威圧的命令には逆らえず、高槻領安堵、4万石 の俸禄で従うことになります。城中には人質がいることを承知しながらも、有岡城包囲戦にも 参加します。結果、有岡城が落ちると、人質は無事救出され、飛騨守も柴田勝家預けとなり、 北荘(福井県)に幽閉となりました。後、飛騨守夫人も北荘に送られましたが、幽閉とは名ば かりで、実際には全くの自由を与えられた生活を送ることが出来ました。 |