落城の惨事
 本格的に村重討伐に乗り出した信長は、天正6(1578)年11月9日、5万人の軍勢 を伴い京を出発、その日は山崎に着陣しました。そして、その翌日、茨木城包囲網を担当し た滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・氏家直通・伊賀定治・稲葉一鉄は、芥川・太 田・猟師川一帯に布陣し、太田北部の山に砦を建設し始めます。又、高槻城へは織田信忠・ 織田信雄・織田信包・織田信孝、越前衆の不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長 近、及び日根野弘就・日根野弘継が働きかけ、天神の馬場(高槻市)に陣取ると、天神山に 砦を築き始めました。
 高槻城は、パアデレの説得にも応じることなく、門を堅く閉ざしたまま容易に陥落するこ とがありませんでした。しかし、信長の「パアデレ等を高槻城全面で磔に処し、高山領のキ リシタン等を皆殺しにし、教会を破却する」という強引な説得には勝てず、高山右近は降伏 してしまいます。
 一方、茨木の太田砦が完成すると、これを越前衆に任せ、砦を築いた滝川等は11月14 日、武藤舜秀・羽柴秀吉・細川藤孝と合流し、先陣として伊丹へ出陣し、刀根山(豊中市) に着陣します。茨木城には、石田伊予・渡辺勘大夫・中川清秀が楯籠もっていましたが、古 田重然・福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の才覚により、24日の夜半、清秀を寝返ら せることに成功しました。清秀は城に織田の軍勢を引き入れ、石田・渡辺の手勢を追放まで しました。
 それまで、本願寺との和睦を、朝廷に奏請しなければならない程、信長には厳しい戦況で したが、これで摂津を抑えたも同然、本願寺との和平交渉など、最早必要なくなりました。
 12月1日には、大和田城と多田城も降伏したことから、信長は、4日には本陣を塚口(尼 崎市)に移します。そして、8日、最初の総攻撃が開始されます。しかし、村重の頑強 な抵抗に苦戦し、万見重元を戦死させるなどの事態が生じます。
 毛利氏を後詰めにしていた村重は、簡単に屈することがありませんでした。12月23日、 毛利輝元は援兵を出し、足利義昭は毛利に村重を助ける様、書状を送っています。よって、 兵糧の搬入も順調であったことから、翌年4月21日には、村重は稲葉一鉄に攻撃を仕掛け る程でした。
 しかし、毛利軍に異変が起こります。第一に宇喜多直家の寝返り、第二に織田の九鬼水軍 の出没です。これにより、畿内への陸路、瀬戸内・播磨灘における制海権の制限で、摂津・ 播磨への兵糧搬入が極めて困難になったのです。これにより、有岡城にも限界の兆しが見え 始めました。兵糧が底をつき始めたのです。桂元将に援軍の要請を行っていましたが、毛利 からの援助は最早期待出来ない状況でした。
 そこで、村重は家臣の懇願を聞き入れ、自らが毛利の下へ赴き、援助を要請するしかない と決心しました。そして、9月2日、村重は若干の共を連れて城を出ました。
 ところが、10月15日滝川一益の調略により、城内の中西新八郎・星野左衛門・山脇勘 左衛門・隠岐土佐守・宮脇平四郎が寝返り、上臈塚砦を解放しました。続いて、岸の砦を守 備していた渡辺勘大夫が自害し、鵯塚の野村丹後守も降伏しましたが、これも受け入れられ ず自害しました。これにより、織田の軍勢が城内に乱入・放火、攻撃は本丸に集中しました。  11月19日、有岡城留守役の池田久左衛門は、織田の攻撃に持ちこたえることが出来ず、 開城を決意します。妻子等を人質として城に残し、久左衛門自らは、尼崎・花隈両城を開け 渡せば妻子等は助けるという信長の条件を、尼崎にいる村重に伝える為に城を出ました。

  いくたびも毛利を頼み有岡や けふ思いたつ朝の羽衣

 しかし、この場において何故か村重は、久左衛門と会おうとはしませんでした。この為、 久左衛門は伊丹にも引き返すことが出来ずに、そのまま淡路岩屋に逃走してしまいました。 有岡城内の人質を警固させられていた池田和泉は、城内の様子を嘆き、次の句を詠んでいます。

  露の身の消ても心残り行 何とかならんミとり子のすゑ

 そして、事態が好転しないことを悟った彼は、鉄砲に火薬を詰め、自らの頭を撃ち砕き自 害しました。残された妻子等は、ひたすら久左衛門の帰りを待っていましたが、今となって はその期待も、何ら意味するものが無くなってしましました。結果、城内に残された670 名の者は、信長の命により悉く処刑されることが決まりました。

余多の妻子ども、此の趣承り、是れは夢かやうつゝかや。恩愛の別れの悲しさ、今更たと へん方もなし。さて、如何がと嘆き、或ひは、おさあい子をいだき、或ひは、懐妊したる 人もあり。もだへこがれ、声もおしまず泣き悲しむ有様は、目も当てられぬ次第なり。た けき武士も、さすが岩木ならねば、皆、なみだをながさぬ者はなし。

 30名程の女性は京都妙顕寺の牢に収容され、伯々部・吹田・久左衛門の息子自念は、 村井貞勝軒所の牢に投じられました。又、摂津において一角の地位にある者の妻子が、 滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀に預けられ、磔による処刑の命が下りました。
 天正7(1579)年12月13日、尼崎城近くにある七つ松で、一度目の処刑。はじ めに122人の妻女が磔に掛かり、鉄砲もしくは槍・薙刀によって惨殺されます。その後、 残った男124人、女388人は矢部善七郎の検使により、空き農家4軒に閉じ込められ、 火を放たれ焼き殺されました。

風のまはるに随ひて、魚のこぞる様に、上を下へと、なみより、焦熱・大焦熱のほのほに むせび、おどり上がり飛び上り、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、 是なるべし。肝魂を失ひ、二目とも、更に見る人なし。哀れる次第、中申すに足らず。

 そして16日、2度目の処刑が実行されることになりました。荒木一族と重臣の妻子を 合わせた36名が、京都市中を引廻されました。

  一番(廿計り)吹田、荒木弟
     (十七)丹後の家、あら木妹、
  二番(十五)荒木娘、隼人女房、懐妊なり。
     (廿一)たし
  三番(十三)荒木娘、だご、隼人女房妹、(十六)吹田女房、吹田因幡娘、
  四番(廿一)渡辺四郎、荒木志摩守の兄むすこなり。渡辺勘大夫娘に仕合、則ち養子とするなり。
     (十九)荒木新之丞、同じく弟。
  五番(卅五)宗察娘(伊丹源内ことを云うなり)伊丹安太夫女房、此の子八歳。
     (十七)瓦林越後娘、北河原与作女房。
  六番(十八)荒木与兵衛女房、村田因幡娘なり。
     (廿八)池田和泉女房。
  七番(十三)荒木越中女房、たし妹。
     (十五)牧左衛門女房、たし妹。
  八番(五十計)伯々部。
     (十四)荒木久兵衛門むすこ自念、此の外、車三両には子供御乳付七、八人宛乗られ、上京一条
          辻より、室町通り洛中をひかせ、六条河原まで引き付けらる。

 六条河原においての処刑には、不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近が成敗 奉行に当たりました。村重の側室多子は、「きこへ有る美人」でしたが、最期の時も、少し も乱れる事なく、車から降りると帯を締め直し、髪を高々と結い直し、小袖の襟を後ろへ引 いて、見事に首を斬られたといいます。ここに彼女の辞世句を挙げてみます。

 消ゆる身は惜しむべきにもなきものを 母の思ひぞさはりとはなる

 残しおくそのみどり子の心こそ 思いやられて悲しかりけり

 この処刑は、信長の3大虐殺の一つとして挙げられます。これを見せつけられた村重は、 どの様な心境であったのでしょう。村重は決して腹を切りませんでした。確かに、当時の武 士道からすれば、言語道断の振る舞いであったかもしれません。しかし、彼は、妻を含むこ れらの犠牲者の為にも死んではならなかったのです。生き恥をさらしてこの世に生きる、そ れが彼にとっての最善の供養方法だったに違いありません。以後、彼は毛利の手に逃れ、尾 道に姿を隠しました。
 茶の湯を愛した村重は武士を捨てました。彼は世間からの冷たい目を、真っ向から受けた に違いありません。自らを、道に落ちている糞如きに例え、名を道糞と自称しました。
 後、羽柴秀吉が天下の実権を握る様になると、秀吉は村重を御伽衆として再び迎え入れます。 その際、秀吉は道糞を道薫と改名させました。
 天正14(1586)年正月26日に茶会に姿を現したのを最後に、5月4日、村重は54 歳、堺でその生涯を終えました。法名は秋英宗薫居士、堺南宗寺に彼の墓があるといわれてい ます。


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