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| ■戦国期の荒木家の位置付け |
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荒木氏の出自については、不明瞭な点があり断定出来ない部分があるので
すが、一般的には丹波国の八上城(兵庫県篠山町)にいた波多野氏の一族と
されています。村重の祖父にあたる大蔵少輔高村が、浪人の身で、摂津国の
武庫郡小部ノ庄(兵庫県川辺郡小戸)へ移り住んで来た事が、荒木家の摂津
国移住の発端であるとされています。 高村は応仁の乱で、細川高国(後の道永)に従って奮戦しますが、大永7 (1527)年2月13日、京都桂川での合戦において討死にします。しか し、その四男にあたる義村の頃には、荒木家も、居住する地域の在地勢力で ある池田氏に仕える様になっていました。 池田(大阪府池田市)は、西に猪名川、南に西国街道、北は五月山に囲ま れた土地で、複数の街道がここで交差し交通の要衝としても栄えたこと等か ら、当時は経済的・軍事的に非常に魅力のある地形でした。 又、『万葉集』に詠われる程の美しい景観を備え、文化面においても多く の詩人・歌人が入れ替わり訪れている所でもあります。現在も、人口10万 人程の衛星都市として発展しながらも、歴史と文化を漂わせる落ち着いた街 になっています。 中世の池田は、南北朝期前後から台頭してきた池田氏によって支配されて きました。池田氏は、摂津国の守護細川氏の被官の下で、勢力を拡大してい た摂津の国人です。 池田氏の拠点である池田城は、遠く大阪湾や淡路島まで見渡せる五月山の 麓に築城されていました。その立地が極めて軍事的に重要だった為、以後、 再三戦火にさらされることになります。しかし、都度修復を行ってきただけ のことはあり、戦国期には堅固な城として評価が高かったようです。 天文18(1549)年から翌年にかけて、細川家の内部争いである、三 好長慶と三好政長の対立が生じます。当然、摂津国の国人・土豪衆にも、そ の影響が及びますが、政長方で、細川晴元に従う有力武将伊丹親興が、長慶 と和睦することにより、摂津の国人衆は悉く長慶の支配下に入ることになり ました。池田氏も、以後、長慶に従います。 戦国期に入り、池田城の城主が池田八郎三郎勝正となる頃には、義村は自 らを信濃守と名乗り、城内においても池田六人衆の地位を獲得する程になっ ていました。当時の彼の動向に関してはあまり明らかになっていませんが、 この地に、2000貫の所領を有する程の武将となっていたことは確認され ています。 |