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■武勇と教養に優れた名将「荒木村重」

荒木村重【あらきむらしげ】1535〜86年

摂津国人池田氏の家臣だったが、織田信長の上洛後に信長に属する。各地での合戦で力量を 認められ、外様ながら明智光秀や羽柴秀吉と同等の武将格に取り立てられる。天正2(1574)年、伊丹城改め有岡 城を居城とし37万石の摂津一国を任される。
秀吉を指揮官とした中国征伐では、副指揮官として活躍するが、天正6(1578)年、突如毛利側に寝返る。信長の 再三の説得にも屈することがなかった為、有岡城落城時、妻子を含む一族・家臣が殺害された。 この時、村重は単身で城を抜け出し、信長没後秀吉に仕える。利休七哲に数えられる茶人としても有名。


○荒木村重ってどんな人?
荒木村重という戦国武将をご存じでしょうか?織田信長の家臣として有名な羽柴秀吉や明智光秀らと共に、 部将格(編成部隊の指揮をとることの出来る身分)の地位で活躍をした名将です。
村重は信長に戦功を認められ、軍略上、要ともいえる「摂津国」の支配を任されます。彼は本拠地に 海陸共に目を光らせる事の出来る伊丹(兵庫県伊丹市)を選び、有岡城(右写真:有岡城跡)を居城と したのでした。

○強かったの?
戦国武将と聞けば、やはり気になるのは武力。果して、村重は強かったのでしょうか?
「応仁の乱」をはじめ、室町〜戦国期の畿内(近畿地方)はあまりに戦が多く、力のある大名はなか なか育ちませんでした。戦ばかりでお金もあまりなかったことでしょう。

その様な中、以前より高利貸しもやっていた池田氏(現在の池田市周辺で活躍した一族)は経済力も あり、着々と土台を固めていました。幸いにも当時、村重は池田氏のもとに仕えていました。ところ が、池田家当主が入れ替わるにつれ、その力の限界をしった村重は、いよいよ表舞台に飛び出すこと になります。足利義昭の寵臣和田惟政(当時の高槻城主)を討ち取り、茨木城を支配する等、瞬く間 に近隣に村重の名を知らしめることになります。

信長に仕えてからも、主だった合戦には参戦し功績をあげます。信長の作戦に口を出し、作戦を変更 させて見事な勝利を収めた事もあったり・・他の武将には真似の出来ない、真の強さを備えた武将でした。

○知性と教養もあるんです・・
千利休という茶の湯の名匠は皆さん、よくご存じだと思います。利休には「高弟利休七哲」と称する 優れた弟子が7名いました。古文書により若干そのメンバーは異なりますが、何と村重の名もあるの です。他には、古田織部や織田有楽斉などが挙げられます。
 その他、能楽や歌にも関心があり、キリスト教については自らはキリシタンにはなりませんでしたが 深く理解を示しています。

○何故、有名じゃないの?
古文書に武勇伝が数多く残っているのに、何故他の部将程有名ではないのでしょう?これには大きな 理由があります。
実は、信長が毛利・本願寺軍と衝突した際、村重は突如毛利側へと寝返ってしまうのです。当時、中 国地方征伐の総指揮を努めていた羽柴秀吉は、摂津一国の寝返りにより織田本軍との連絡路を絶たれ まさに孤立状態。まして、軍事上決して手放せない摂津国が寝返るとは・・信長の怒りは頂点に達します。

村重は籠城を決行しますが、味方の降伏などにより単身脱走。妻子をはじめ城内に残された者は悉く 処刑されることになったのです。この汚名が後世語り継がれることになり、村重の人物像を否定的に 捉えられる結果となったのです。特に戦前では、謀反や寝返りは「悪」とされ、信長の立場からしか 物事が捉えられない一元的な発想の教育がなされ、現在に至っています。

■詳細な内容

1.戦国期の荒木家の位置付け
2.伝説から生まれた村重
3.池田家と村重の活躍
4.信長の上洛と畿内動向
5.池田家の転機と村重(1)〜六条合戦
6.池田家の転機と村重(2)〜白井河原合戦
7.信長統治下における村重
8.中国征伐と村重の謀叛
9.謀叛を取り巻く人々【高山飛騨守・右近】
10. 謀叛を取り巻く人々【黒田孝高】
11. 謀叛を取り巻く人々【明智光秀】
12. 落城の惨事

参考文献