義経の西国落ちと「弁慶の泉」


 私の住む大阪北摂地域には、古代から近現代にわたる広範な歴史・文化・伝統が存在する。 よって、弁慶に関する伝説も確認出来る。今回は、自宅からほどなく近い「弁慶の泉」に関し て少し書いてみたい。

 源頼朝の下で活躍する義経ではあったが、頼朝は、この義経の柔軟な軍略に対し、不満を募 らせていた。彼は、義経を鎌倉へ入れなかったばかりか、謀叛人として挙げた源行家の討伐を、 義経が受け入れなかったことから、ついに、義経の討伐を決定した。一方の義経は、頼朝の巧 みな政治力に所領を奪われるが、京における兵力の維持も、また困難を極めた。よって、彼は 後白河院を頼り、九州の荘園・公領の支配権を獲得することで、この地を離れる決心をした。

 文治元(一一八五)年十一月三日、備前守行家・斎藤友実・緒方維義等を見方にした義経は、 総勢二〇〇余騎で都を出た。西国落ちとは言え、表向きは院宣に従う義経であったから、大物 浦へは西国街道を通り、恐らく、猪名川辺りで舟下りでもしたものと考えられる。鎌倉からの 義経追討軍は、義経一行の出発とは入れ違いで入京した為、義経は直接の攻撃を受けることだ けは避けられた。しかし、畿内においても、頼朝に従う者は多く、中でも多田行綱以下は義経 一行を狙った。その際、義経に足止めを食らわせない様に、全力で防御に徹したのが、弁慶な のであろうか。激戦の後、この「弁慶の泉」で喉を潤した、と伝えられている。

 池田市豊島南の北今在家、中国自動車道中国池田インターチェンジの入り口そばに、「弁慶の 泉」(北今在家の清水)はある。丁度ここで、西国街道をなぞる国道一七一号線が交差してお り、伝承に真実味を与えている。交通量が多いばかりで、人通りは少ない。歩道を行くと、住 宅が並ぶ中に、小さな溜池の様なものを発見出来る。じっくり見ていないと、見過ごしてしま う程のものだ。泉というには、あまりにも情けないものだが、地域の人々の手によって、その 空間は伝承のヴェールにしっかりと包まれている。

 この泉は、箕面川の放流水がここで湧き出ているとされているが、かつてはここから南部に広 がる平野部の田畑の潅漑用水として利用されていたという。現在でも、この地域一帯の農家を 中心に利用されている。又、この伝承を後世に残す為に、毎年五月三日に「弁慶祭り」が行わ れている。

 伝承は、史実とは異なる。しかし、その伝承を一つの文化として、後世の人々に確実に伝えよ うとするその姿勢は、私にはうれしい限りである。又同時に、これらのことは我々の世代が率 先して、実行していかなければならないものだとも感じる。「弁慶の泉」は、これからも清水 が湧き続けることだろう。



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