北朝鮮、中国50日(1958年3~5月)

 

大日電線株式会社 生産技術部副部長
  山村義雄 

                    内容目次

                1. 渡航の目的
                
2. 出発まで
                   2.1 訪朝日本実業団の結成
                   2.2 日韓交渉の影響
                
3. 羽田から平壌まで
                   3.1 ぶつそうな香港
                   3.2 資本主義と社会主義の国境
                   3.3 広州の蛋民
                   3.4 長江の大鉄橋
                   3.5 北京の公司
                   3.6 満州の広野を走る
                
4. .朝鮮の1ヵ月
                   4.1 朝鮮の政府
                   4.2 朝鮮の風物
                   4.3 敵慨心
                   4.4 解放のよろこび
                   4.5 朝鮮の英勇
                   4.6 板門店に停つ
                   4.7 商談
                   4.8 日本の置土産
                   4.9 経済事情
                
5. 平壌から羽田まで
                   5.1 北京の打麻雀
                    5.2 故宮、万寿山
                   5.3 万里の長城
                                          5.4 北京追放
                                          5.5 再び揚子江大鉄橋を渡る
                                          5.6 中国の見本市を見る
                                          5.7 香港から羽田へ
 
 

1. 渡航の目的 

 私は1958年3月19日から5月5日まで約50日間中国を経て北朝鮮を見て来た。

 その目的の第一は北朝鮮訪問の日本実業団の一員として北朝鮮政府の商社から招待されて貿易の商談に応ずることであり、第二の目的は中国の水力発電設計院の干開泉技師長との約束で22万VのOFケーブルの設計書を提出し公司に出向いて商談することである。勿論この機会に北朝鮮の工業事情や中国の電線工業の近況を視察することも希望であり目的であった。

 しかしこの目的は半分位しか達せられず帰国したのである。朝鮮では約1ヵ月を費し商談も担当多額の契約が出来たし地方視察も平壌から清津、茂山方面まで広範囲に廻ることが出来たのであるが、中国では往復の道すがら広州、長沙、武漢、鄭州、北京を見ただけであった。と云うのは朝鮮では政府機関の接待を受て各地方でも歓迎されたのに反し、中国では丁度悪い時で4月10日頃から岸首相が台湾政府と近づくために大陸中国を非難した発言があって以来、国交関係が非常に悪くなって私共の中国滞在は許されないのみか寄道をすることすら出来ず往復一路帰国しなければならなかったからである。


 

2. 出発まで 

2.1 訪朝日本実業団の結成

  1月10日東京丸ノ内のサロン「パリー」の地下室で訪朝日本実業団の結団式が挙げられた。日本国際貿易促進協会の会長山本熊一氏から厳かに結団を宣誓されて、団長には国際貿促副会長の吉村孫三郎氏を推し、団員一行25名が決定したのである。続いて朝鮮訪問の目的、現在の日朝貿易の情況、最近の朝鮮国内事情について山本会長及び石野代議士から説明があり、特に日韓交渉との関係、南北朝鮮問題に関する団員の意見統一、在日朝鮮人の現状、その他寒い地方の旅行に対する注意、渡航の手続等について細々と注意があって、1月30日には出発出来る様に用意せよとのことであった。

 元来この北朝鮮訪問実業団なるものは1957年9月に日本の民間団体である国際貿易促進協会、日朝協会、日朝貿易協会の三団体が北朝鮮(正式には朝鮮民主主義人民共和国)の政府機関である国際貿易促進委員会と通商協定を結んだことから始まり、その議定書の中に今後両者の視察団を交換することが入っているのであって、その第一回を日本から北朝鮮に実業団を派遣することになったものである。日本国際貿促が主催者となって訪朝団員を募集した処が50社以上になった、これを色々の都合で25人に限定し、その中に大日電線が含まれたので私がこの団に参加することになったわけである。

 2.2 日韓交渉の影響

  1月の末に出発の予定であったが其後数回団員の会合があってその都度出発は延期され、3月19日やっと羽田を発って香港に向ったのである。その延期された事情を少し述べる必要がある。最初に訪朝実業団の北朝鮮渡航は国交回復していないが外務省は黙認すると云うので団員を募集し結団までしたのであって、渡航許可は団体申請で出来ると考えていた。処がたまたま韓国大使と藤山外相との間で釜山収容所の日本漁夫と大村収容所の朝鮮人とを交換釈放する話がまとまり、日本側としては釜山の日本人922人を釈放せねば日韓交渉には応じられない旨を強く申出た。そして昭和32年は暮れて1月から第一船第二船と相互釈放は順調に進んで来た。この時外務省が我々北朝鮮訪問の渡航を許可するならば韓国を刺戟して漁夫の釈放が不可能となるおそれがあるから、922人帰るまで渡航を待ってくれというのであった。処が大村収容所の中で釈放者中に北朝鮮に帰り度いと云う者が多く出て来たので、日本政府としては北朝鮮希望者を韓国に還すと直ちに処刑されることは明かであるから人道上保護することにした。韓国側はこれを知って還せと迫り、遂に漁夫422人残して釈放は打切りとなってしまった。従って我々の訪朝団の渡航は不許可となったのである。しかし何んとかして渡航する方法はないかと協議の結果、各団員は個々に適当な理由をつけて中国に入り、北京で集結して朝鮮に入ろうということになった。1月も過ぎ2月も過ぎ3月に入った。25人の団員の中には前から中国に渡っている人が9人ある。これ等の人は我々が1月に行く予定であったから北京で待ちくたぴれている。又朝鮮政府でも本年度の発注品の契約を早くしたいから督促して来る。いよいよ個人個人の実力で大陸へ渡るのであるが、私は東邦商社の嘱託となって印度行きの旅券をとり.香港に一週間商談滞在と云うことにして、手続は外務省、インド大使館、香港政府の3ヵ所に出頭してパスポート、入国ビザーを貰った。そして3月19日真夜中日本航空のダグラス機に乗って羽田を発ったのである。

                                              

 

3. 羽田から平壌まで

3.1 ぶつそうな香港

 3月19日といえば私の第50回の誕生日である。そしてその日に初めて飛行機に乗ったのであるから将に天に昇る心地であった。50人位乗っている私はE7番のシートで窓ぎわである。非常に狭いシートであるがクッションがよいので体がもぐってしまうようだ。丸窓の外はネオンが宝石をばらまいた様に美しい下界、東京横浜あたりであろう。そのうちに海の上に出たのか真暗になってエンジンだけが真赤に焼けている。話には聞いていたが、こんなに真赤に焼けているのを見ると何んだか心細くなる。前の席の背中に袋ポケットがあってその中に旅の案内や救命胴衣の使用法、衛生袋等がある。我々の団員も偶然5人乗り合せているが爆音がやかましくて話が聞えない。夜食の御馳走が運ぱれた。珍らしい食器、珍らしい料理、だが余り食慾がない。美しいスチユアデスが救命胴衣の使用法を説明してくれた。そのうちに眠ってしまった。

  眼が覚めた時はもう外は明るくなっていて朝食が運ばれて間もなく九竜飛行場だという。島が見えだした。香港の島はきれいだ。海の色、山の建物みなきれいだ。やがて静かに飛行場に着陸、午前8時半である。太陽の光線がいやに強い、1晩のうちに台湾よりまだ南の香港まで来てしまったのだ。3,000キロを夢の間に飛んで来たのだ。中国旅行社の人の出迎えを受けて、大きな荷物はそのままにして手荷物だけ持ってゴールデンゲートホテルへバスで送られた。九竜駅を11時の汽車で広州に向うのであるがそれまでホテルで休憩することになった。団員5人一緒である。しばらくしてから我々の仲間の一人がパスポートの件で空港に呼び出され、引続き我々5人も全部空港へ出頭せよというので又バスに乗って出発しようとした処へ、旅行社から電話でパスポートの件は解決したから出頭せんでもよいとのことでホットした。それから九竜の街をぶらつきに出た。大きな榕樹の並木が続いて4階建の商店街が色彩豊かに強い日光に映えている。緑と赤、黄色の大きな漢字、ローマ字、大陸第一歩すでに異国情緒豊である。何もかも珍らしいままに次々と町角を過ぎキャメラをパチパチやって歩いた。知らぬ間に靴磨の子供が足下で勝手に私の靴を磨いている。歩き出すと又ついて来て磨き出す。うるさいから逃げるようにして歩いたが、キャメラを撮る毎に止るからまたやって来る、とうとうしまいには靴に泥を塗ってしまうのである。3~4人のチンピラではあるがこうなると薄気味悪くなって散歩をきり上げてホテルに帰った。チンピラはホテルの前までついて来て巡査の姿を見て逃げて帰った。第一印象は甚だ不愉快であった。出発の時に香港では万年筆を洋服の外ポケットに差していたら無いものと思えと誰やら云っていたが、何やらうなずける様である。

 ホテルではこんどは団員のFさんが荷物がないといって青くなっている。我々は大きな荷物は旅行社にまかせて飛行場から直接汽車の駅に運んで貰うことにしてある。その時個人個人で確かめていない。Fさんはその荷物が必要になって駅へ荷物を見に行ったのである。荷物がないという、さあ大変ということで我々5人すぐ駅へ行って調べた処FさんとKさんの荷物がなくて、知らぬ人の荷物か我々の荷物の中にまぎれ込んでいる。日航へ電話して厳重にねじ込んだ。日航の人が来て今日の飛行機の荷物は全部合札と合せているから間違ない、若し間違ったとすれば羽田で札のつけ違いである。兎に角乗って来た飛行機が今バンコックに行っているから問合せて荷物があれば明朝までに取り寄せますといって恐縮していた。私の荷物は無事であったが旅は道づれというから5人同一行動をすることにして今夜は九竜泊りということにした。

 こうなると落ちついて夜は香港見物に行くことにしてホテルの事務の何(カー)さんに案内して貰った。何さんは神戸生れで18年おったと云うから日本語の方がうまい位である。九竜から渡し船に乗って約10分対岸のビクトリヤ島即香港の町に着く。立派なフェリーボートで自動車もトラックも乗ったまま渡る。1万トン級の汽船の横を通ってネオンサインの下に着くのである。味の素のネオンサインか目につく、この広告料は1ヵ月20万円だと説明してくれた。香港の街は高い建物か林立していて道路は深い谷間になっている。沢山な露店が露地毎に出されていて人出は東京の浅草の様に多い。真赤に塗った人力車が沢山並んでそのカジ棒に尻をおろして客を待っているヤンチョはめずらしい風景である。立派な店が沢山あって商品も豊富である。書店には日本の週刊雑誌が沢山出ている。我々は2階建の電車、2階建のバスに乗って市街を見物した。香港は九竜と合せて人ロ270万という、自動車は3万台あるという。商店は4階建以上であって一番下が店で上は住宅である。みすぽらしい洗濯物が千してあるから余り生活は豊でないらしい。それに反して山の高い所には頂上まで高層建築の住宅が続いていて立派な物が多い。おそらく貧富の差は激しいことであろう。香港の銀行には世界各国の人が預金していて銀行は沢山な金を持っているという。何さんの案内で金魚飯店という処で食事をした。5人で腹いっぱい食ぺて46ドル(ホンコンドルは60円)であった。初めて大陸の中華料理をたべて実にうまかった。次にアイスクリーム屋に寄ってマンゴーの入ったクリームを食べた。ここの女主人は日本人で20年前から香港に来ている。かっては香港市長の何かであって相当な暮をしていたとのことだ。日本語をなつかしそうに語るのである。香港見物もいずれ帰りに出来るから今日はこれで切りあげてホテルに帰った。

 <写真>

①九龍のチンピラ

②九龍商店街

③九龍商店街

④九龍から羅湖への車窓

⑤羅湖駅

⑥深圳駅

3.2 資本主義と社会主義の国境

 翌朝21日にバンコックまで持って行かれた荷物が無事に返って来た。いよいよ5人で11時の汽車で九竜を発ち広州へ向った。物売りが汽車の中までうるさく押売りに来る。英国と中国の境、羅湖から深圳に入ると物売りは全く来ない。ハエもいなくなる。住民の顔は変らないのに山河の形も変らないのに不思議に思う。これが資本主義と社会主義の境界と云うものかと考えさせられるのである。羅湖は英国側で、汽車から降りて小さな鉄橋を渡って約300mほど歩いて深圳の駅に入る。深圳が中国の第1歩である。ここでは厳重な税関の調べを受ける。我々一行の1人は45,000円のキャノンを贈物用として持っていたので即座に6万円の税金を取られて青くなった。写真のフィルムは特にやかましくてカラフィルムは中国内では現像出来ないから預けて行けと云って取り上げられる。駅にきれいな食堂があって食事をして午後3時の汽車で出発した。

 車窓の風景は珍しい物が多い。3月なのに田植前の準備で百姓は忙しい、苗代は大分伸びて青々している。小さな駅で見る住民はハダシで生活している者が多い。我々の汽車の箱は頭等といい軟席といって最高級のもので中国人は乗っていない。2等と3等かあってこれは硬席といいイスが硬いのである。山の中腹には所々に墓地が見える、広い敷地に石で築いた立派なものもあるが骨がめだけおいてある粗末な墓もある。禿山が多く今盛んに植林中である。鉄道沿線にもユーカリに似た細い若木が沢山植えてある。ユーカリは蚊がきらうから蚊よけの為だと云うが、これはちよっと信用出来ない。言葉が通じないから色々に想像されて面白い。榕樹のしげみに水牛が遊び豚の児が群っている。列車の中でお茶が運ばれる、何回も湯をつぎに来る、そして最後にお茶の葉の料金1角(10銭)を集めていった。きれいな焼物のズンドウの湯呑茶碗にお茶の葉を投げ込んでお湯を差し、葉の入ったまま葉をよけて飲むのである。蓋がついていて清潔である。中国に入ると英領の華やかさはないが清潔で気持がよい。田舎の百姓家の家々の入口には赤紙に大きな字が墨で書いてある、日本の正月の書初めの様なもので、今旧正月でそれぞれ自分の好きな文句を書くのだそうだ。アヒルを100羽ほど、水牛を20頭ほど連れてスゲ笠をかぶった男がたんぽのあぜ道に腰を下している。彼の1日はここで暮れるのであろう。丁度幼稚園の保母さんか子供の守をする様に。日暮には引きつれて家に帰るのだろう。この国この土地にはよく似合う風景である。タンボと小川との境目は各所に土堤か崩れてタンポに土砂が流れ込んだままとなっている。少し雨が降るとその度にこんなになるのだろう。黄河のハンランもこの大きなものに過ぎないのだ。などと余分なことを考えた。車内は時々ボーイさんが来てリノリュームの床を雑巾で拭て行く、清潔ということがよく徹底していると思った。夕方6時に広州に着いた。

 

3.3 広州の蛋民

  広州の愛群大厦という国際ホテルに入った。13階建の建物で広州で一番高い立派なものである。我々は香港で1日予定がくるったために明日は土曜で飛行機は欠航だし、23日は満員で24日でないと席がとれないと云う。北京入りは3日間遅れることになった。あきらめて明日から広州見物をすることにした。部屋の窓の下はすぐ珠江で榕樹の並木を見下している、涼しい風が入って来るが湿気が非常に多くて蒸し暑い。蛋民という水上生活者が川の上に沢山いて夜おそくまでやかましい。朝も早くから汽船の汽笛、ドラが鳴り珠江は実ににぎやかだ。水量豊かな大きな河であるが黄色か褐色かきたない水である。11階の食堂から広州の町は遠くまで見える、人口は180万という大都市である。毎日の食事には中国語がわからぬとちよっとこまる。幸に同行者の中に話せる人がいて便利であった。中華料理は相当豪華なものでも割合安いので毎日御馳走を食べた。広州見物第1日は不案内のままバスに乗って終点から終点まで行って帰った、その間、中ソ友好会館、体育館など見物した。共に最近の近代式建築で5,000人以上も入れる見物席、中央にパスケツトポールとピンポンの台がある。バスケットボールは中国の国技なのか到る所にバスケツトのポールが立っていて、野球は全く見かけなかった。

 翌日は本式に旅行社の人の案内で改めて市街見物に出た。中山記念堂、鎮海楼、光塔、花塔、烈士の陵、華僑新村、等を廻った。愛群大厦も広州の名所であって外人はみなこのホテルに集っている。この建物は今でも華僑個人の所有物で本人はロンドンに住み中国政府に多額の家賃で貸しているのだそうだ、豪華なものである。それに引きかえホテルの下の珠江の川の上に住む何万人という蛋民は特殊な住民で、先祖代々水上で生活している。同じ民族でありながら陸上の人の仲間に入れて貰えず、船を住み家にして水上労働、荷上げ人夫等が主業である。最近では会社へ通勤している者もあるという。解放後やっと水道が引かれ電灯がついた。それまではこの汚い川の水を飲み、陸の人と結婚出来ず、死んでも土葬は許されないのでみな水葬とのこと。今中国政府はこの住民を陸で生活さす様に努力して、学校も陸の上に造ってやったが中々陸に上って登校しないので止むを得ず水上に学校の教室を造ったという。そして第一番目に何を教えるかというと、歩くことだという。それは先祖代々船の上で生活していると歩き方が陸上の人と大分変っていて肩をいやに上げた姿勢で歩くそうだ。その歩く姿を見ればすぐあれは水上生活者だ蛋民だということかわかって軽蔑されるので、先ず第一に歩き方を習って陸上の人と比べてわからない様にしようと努力しているという話である。船の中をのぞいて見ると非常にきれいにしてあってピカピカ艶が出ている。はい歩きの赤子は体に長い紐を結びその端を船の天井に結びつけてある、その紐の長さが赤子の行動半径である。歩いたり走ったりする様になった子供には腰に直径10cm長さ30cm位の木片2本程を紐でぶらさげている。これは川に落ちた時に早く見付け易い様に又少しでも浮き易い様につけているのだという。大きな木片をぶらさげて遊び歩いている子供の姿は又珍しい風景である。

 広州は烈士の陵があって広州起義烈士陵園という大きな公園になっている。これは国民軍と闘って戦死した英勇(雄)を祀った墓地を中心にした公園で市民のリクリエーションの地である。1957年に出来たばかりの広州の新名所である。こうして建国の英勇の霊を祀ることに莫大な金を投ずる中国は決して無宗教とは思われない。又この姿を見ると一朝―タには台湾政府と仲よくはなれないと思う。それから華僑新村という所は1956年に出来た新しい部落であって立派な洋風の建築庭園の高級住宅地である。華僑が海外で富を得て故郷に錦をかざり余生を送るために建てられたもので、土地は国家の所有であるが住宅は自分の物だと云う。社会主義国家にもこういうことが認められているのである。また大同酒家という食堂ビルがあって5階全部が食堂で1階2階は大衆席で上に行くほど高級となり、5階には○○家御席というものかあって金持の家族は1日の3度3度の食事をこの食堂で食べるのだという。中国では少し給料の高い人は金が余る、贅沢品は少ないから金の使い道がない。食べ物だけはいくらでも高級料理があるので食事に投ずるのだという。 

⑦広州の珠江と蛋民

⑧広州花塔

⑨広州の街

 

3.4 長江の大鉄橋

  我々は24日の正午やっと北京行きの飛行機に乗った。広州を立って途中長砂に降りて30分休憩して武漢でまた降りた。その時天候が悪くなり雷が鳴り雨になった。飛行機は今日は飛ばないという。今日中に北京に入る予定がまた武漠市で1泊することになった。しかもおかげで長江(揚子江)の大橋を渡ることが出来た。この武漢揚子江大鉄橋は中国第1次5ヵ年計画の中の最重要な工事の1つであって、全長1km余で橋脚は基礎から橋桁まで高さ80m余あるといい、両側が歩道で中央はトラック6台で渡れるという。その下は鉄道が通っていて近く復線が完成する。又その下川の上は1万トン級の汽船が通っているのである。1957年に開通して中国の南北交通は著しく便利になって武漢三鎮といわれた武昌、漢口、漢陽を合せて武漢市となり、今後工業の重要地となって発展するであろう。武漢市は人口200万といわれている。揚子江に橋がかかったと云っても揚子江を知っている人は今でもほんとにしない。それほどの難工事を突破した中国の実力は驚き恐るべきものである。我々は武漢の璇宮飯店という立派なホテルに泊って翌朝5時に起され、天候は余りよくなかったが9時に飛び立って途中鄭州に降りて休息し、更に黄河の上を飛んで北京飛行場に着いたのは午後1時半であった。北京に居る日本商社の方々に迎えられて新僑飯店というホテルに入った。

 

3.5 北京の公司

  私の第2の目的である中国とのケーブルの商談は朝鮮からの帰途に充分行う予定であったが、我々訪朝団一行がまだ全部集結していないのでその待つ間を利用して面会を申込んだ。国務院水力発電設計院の総工程師干開泉先生は26日朝10時半に小生のホテルを訪ねると云って来た。一方、電線を購入する窓口である機械公司の方に出向いた。26日朝9時に公司を訪ねた。先ず受付に行くと女の人が1人1室に居て電話で担当の葉さんと云う人に取ついでくれた。間もなく葉さんが女の子に1室に私を案内さしてくれた。私は東邦商会の堤さんに通訳して貰い用件を伝えた。葉さんはまだ20才少し過ぎた位の妙齢の別品さんである。おしろいも口紅もつけていないが顔形のよい美人である。機械公司の係長さんで英語もロシヤ語も達者だという。秘書の女の子も北京大学を出たばかりの若い女性である。しっかりした質問をして、てきぱきと話をつける。そして固い握手をして別れた。ホテルに帰って干開泉先生の訪問を受けて依頼されていたケーブルの設計書や参考文献を渡した。朝鮮からの帰りに再会を約束した。今北京の北海公園で水力発電展覧会をやっているから見て行けといわれたので、これを見学に行った。中国第2次5ヵ年計画の発電所建設予定を全部模型で展覧してある。閉場時間は午後4時であるのに私共のためにわざわざ6時頃まで説明者が残って説明してくれた。しかもそのあとで主任の干*(さんずいに雁)津さんの事務室にまで案内されて発電所の写真等を貰った。帰る時に訪問者名簿に署名してくれと云われ勇気を出して一筆書くことにした。署名簿を開いて見ると最後の頁に西園寺公一氏が署名している。私はその横の頁に「水力即国力」「大日電線山村義雄」と書いて来た。干*(さんずいに雁)津氏は非常によろこんで「御国の人に協力して頂いて中国の建設に尽し度い、どうか今後も宜しく御願いします」と固い握手をして別れた。

⑩ 豊満水力発電所全景

⑪ 官庁水力発電所全貌

⑫ 獅子灘水力発電所外景

⑬ 上猶水力発電所工事場視景

⑭ 黄壇国水力発電所工事場全景

  

3.6 満州の広野を走る

  26日の夜中に我々訪朝実業団員24名やっと集ることが出来た。 27日朝7時の国際列車で北京をたち平壌に向った。汽車の箱は日本の2等寝台より立派でベッドも大きい。天津、瀋陽(奉天)を経て30余時間の汽車の旅である。窓の景色はいづこも同じ様な冬景色で楊柳の葉の落ちた枝のしげみにカササギの巣が各所に見られる。耕作地広大なのに人影はまぱらである。地平線まで畠は続いているが見るからにやせ地の様な色をしている。鉄道の沿線には例によって植林が続いている。集団農業の一群と土木工事の奉仕隊が時々見える。何時間も同じ景色で1本のクリークがどこまでも長い。午後5時錦西駅に着いた、大きな工業地である。駅の近くに工人住宅が立派に建ち並んでいてすぐ近くに飛行場もある。駅々の各所に第3次5ケ年計画が完了すれば英国の工業水準を乗り越すのだ頑張れという字が書かれている。今中国ではこれが合い言葉になっているという。各所にその実現の可能性が見受けられる。広大な原野、無限の埋蔵資源、強力な団結力、外貨獲得のためなら人民は自分の着物を脱いでまで協力するといい、1年17ヤールの綿布の配給で甘んじて衣料はどんどん輸出しているという。間もなく錦洲に着いた。流石に大きな都会で、大きな製鉄工場が見える。日本人の築いたものである、感無量である。朝4時中国、朝鮮の国境安東に着いた、税関に充分調べられて2時間かかった。兵隊さんが立会っている。ねむたい寒い時刻に実に不愉快である。

                                             

 

4. 朝鮮の1ヶ月

4.1 朝鮮政府

 安東の税関の調べを終って鴨禄江を渡る頃は夜が明けていた。鴨緑江の鉄橋は2本あるが1本は朝鮮戦争で落されたまま赤く錆びた鉄材が水の中に半分落ちていた。渡れば新義州、ここでは今中国の義勇軍が朝鮮警備の任を終えて中国に還る処であった。朝鮮の婦人会や女学生の歓呼の声で送られているのを見た。新義州から平壌までの鉄道沿線は両側に10mか20mの間隔で爆弾の跡がある、丸い水溜となっている。田舎に見える人家は全くの仮小屋であるが、時々真新しい煉瓦建の新築の家がある。中国の田園風景とは異り山は緑、水は青く日本の風景に少し似ている。山の上まで耕作されてトオモロコシの切株が見える。平壌には28日午後2時半についた。北京から実に31時間の汽車の旅であった。朝鮮の国祭貿易促進委員会の副委員長以下30人位の出迎えを受けて平壌ホテルに入った。北朝鮮即ち朝鮮民主主義人民共和国は大体38度線から北を云うのであって人口は約900万人である(南朝鮮は約2,000万人)。金日成首相の下に副首相6人と大臣39人位いる強力な内閣の政府である。 政党は金日成の率いる労働党の一国一党である。対内外商業相という大臣がいて、その下に国際貿易促進委員会という機関であって、われわれの団体はこの委員会の招待を受けたのだから国賓の様に待遇された。それだから北朝鮮の旅は一切団体旅行であって地方視察の時は必ずその土地の人民委員会の委員長か副委員長(市長か副市長の様なもの)が歓迎してくれレセプションを受けた。工場見学の時はその工場の支配人、技師長、労働組合長が出て来て説明案内をしてくれた。しかし我々の希望する所ばかりを視察することは出来ず先方の都合のよい場所日程が組まれた。

 

4.2 朝鮮の風物

   北朝鮮の事情といえば先づ次の言葉のニュウアンスを知って頂くことが便利である。先生、解放、日帝、人民、握手、祖国、白ペンキ、柳、アカシヤ、煉瓦、リンゴ、トウガラシ、明太子、兵隊、爆弾の跡、済州島の馬、人蓼酒。               

①先生  誰々さんという時には必ず誰々先生という。尊称であるが、何か馬鹿にされたような気がする。
②解放  何を話すにも解放前と解放後を必ず比較していう。いかに解放後かよくなったかを語らんとするのであろう。
③日帝  日本帝国主義時代というのであって、解放後と比べていかに日帝時代が悪政であったかをいいたいのである。
④人民  これは共産圏共通の言葉で三民主義のそれであり、国民というよりも何か解放された者を意味するのであろうか。
⑥握手  日本人だけかオジギをする習慣かも知れぬが兎に角誰とでも握手しないと挨拶したことにならない、随分めんどうなことで、殊に女の人とやたらに握手するのは何かおかしな気がする。
⑥祖国  朝鮮人にとっては長い間失われていた祖国である。1945年やっと祖国を奪還したのだから一入意味深いものであろう。
⑦白ペンキ  これは中国でも同じであるが街路樹は根本から30cm位白ペンキが塗られている。家の囲り土壁の下周り等にも石灰のような白い物が塗ってある。初めは衛生から始まったのらしいが今では一種の飾りとなって朝鮮人の生活にとけ込んでいる。
⑧柳   柳は満州にも沢山楊柳(ドロ柳)が見られたが平壌には実に沢山な猫柳がある。平壌は一名柳京ともいわれている。
⑨アカシヤ  平壌の牡丹峯には丘一帯がアカシヤの林である。
⑩煉瓦  朝鮮の、昔の家は土で出来ているが、最近の住宅はすべて煉瓦である。レンガとセメントとガラスは輸出するほど出来る、到る所に煉瓦の山、煉瓦工場がある。
⑪リンゴ  昔から朝鮮の満紅というリンゴか沢山日本にも来ていた、リンゴは1個5円位でどこでも売っている。食事の三度三度には必ずリンゴが出る。最近デリシャス種と交配した赤くないおいしいリンゴが出来ている。
⑫トウガラシ  朝鮮人はトウガラシを料理に沢山使う、殊に白菜の漬物にトウガラシを入れたキムチという漬物はおいしい。
⑬明太子(メンタイコ)  といっても知らない人が多いがこれはタラの子のことで日本では赤く着色して売っている。これは朝鮮の重要な輸出物資である。
⑭兵隊  日本では昔の兵隊姿は見られないが、今その姿によく似た兵隊さんが沢山目につく。朝鮮はまだ戦時であって綿入れのカーキ色の綿服にサシコをした物を曹ている。肩には大きな肩章に星が四つもついている人がある。
⑮爆弾の跡  鴨緑江を渡ると鉄道の両側におびただしい爆弾の跡があって、その水溜で婦人がキヌタを打って洗濯している風景は何か不思議に思われる。平壌だけで50万噸の爆弾が落されたという。
⑯済州島の馬  朝鮮ではまだ馬の力か大きな動力になっていて、しかも小さな済州島の馬であるから大抵の馬力車は二頭立である。衛生問題がやかましいのか車には必ず馬糞を入れる袋をぷらさげていて、道路に馬糞を落していかない習慣かある。
⑰人蓼酒  朝鮮の人は酒が非常に強い、宴会では必ず10回位乾盃をやる。その時は必ず人蓼酒を使う、朝鮮人参が入っていて不老長寿の薬だという。

 

4.3 敵がい心

  朝鮮のホテルの食事は米がよいのと漬物がうまいので非常にうれしかった。米は広州が一番まづくて北へ来るほどうまく平壌の米は日本の一等米ほどうまい。それに量が多い。朝鮮では1日の配給が800grだという。日本の2倍以上である。我々は平壌最初の夜おそろしい映画を見せられた。それは朝鮮人民軍がかつて京城まで攻め入った時に米軍のフィルムを奪って来たもので、朝鮮戦争の最も残虐な場面を映している。非戦闘員婦女子を殺すところ、赤子にまで手をかけている米軍の非人道な行為を映している、目をそむける場面が再々出て来る。米人はこんなことして我々朝鮮人を苦しめたのだと訴えるのであろうが、我々にして見れぱやっと戦争の思い出を忘れかけているときこんなアクドイ映画を見せられては朝鮮人に同情することも米兵に反感を抱くことも通り越して只々戦争をにくむ心でいっぱいであった。長い旅をやっと終ってホテルにくつろいだときこんな映画を見せられては全く不愉快であった。また北朝鮮の政府がこのような映画で人民に米兵に対する敵愾心をそそっているのかと思うと、たとえその効果が北朝鮮の復興のテンポを早めたとしても余り感心した政策ではないと思った。私の朝鮮第一夜はこのように不愉快な不可解な第一印象であった。

 解放記念塔

牡丹峯の乙密台

牡丹峯の民族博物館

 

4.4 解放のよろこび

  29日は非常に寒くて雪が降った、市内見物の予定を延期して一日中ホテルで過した。夜朝鮮の国貿促副委員長のレセプションで御馳走になった。大変な料理で人参酒、プドウ酒、ビールが沢山出て国際ノド自慢までとびだして非常に盛会であった。30日の朝我々訪朝団はエチケットとして牡丹峯にある解放記念塔に参拝して花輪を捧げた。これは朝鮮独立即ち日本帝国主義より解放された記念の塔でその礎となった人々を祀ってあるのだという。この塔には朝鮮文字で日本帝国主義より解放してくれたスターリンの御恩を永遠に感謝すると書いてあるのだという。牡丹峯一帯は小高い丘になっている公園である。その下を大同江の清流が流れ貯水池の付近は特に美しい。冬枯のアカシヤの木立を散歩しながら、春光のアカシヤの花の香にランデブーの酔うそぞろ歩きの風景を想像して一入センチメンタルな旅情に誘われた。ここは昔平壌城の跡で平壌市の歴史1500年の発祥の地である。その昔大同江に船を浮べた貴族の栄華を競った遊宴の地である。今また、五年前の戦禍から雄々しく立ち上った平壌市民の唯一の憩の地となっているのである。最勝台、乙密台、玄武門等、かっての要所々々は今もなお保存されて戦歴を物語っている。山の下の盆地には国立運動場がある。今日は日曜日で色とりどりの吹流しをたててサッカーの試合をやっている。朝鮮ではサッカーとマラソンが非常に盛んで野球は見られない。丘の上にある牡丹峯劇場は立派なもので大理石の太い柱が遠くから見える。朝鮮人はいかに苦難な時でも芸術と娯楽は忘れなかったという。すぐ近くに地下劇場があって戦時中に市民が人力で掘ったという、石段189段50米下ると800人収容出来る劇場がある。我々一行は更にバスで市中を廻り内閣の建物、金日成首相の邸宅の前を通った。敷地は広いが小さな家である。国会議事堂、それから西平壌のおびただしい住宅街に出た。レンガの四階建が遙か遠くまで続いていて、一番大きなアパートは700家族収容出来るという。家賃は8畳、6畳、玄関で-ケ月450円だそうだ。米1瓩10円だというから1人一ケ月1,000円で充分生活出来る。1~2年後には平壌市民全部がこのアパートに入れるのだという。バスはホテルに帰って来た、ホテルの前の通りはスターリン通りといって官庁ビルが立ち並び道巾は40米のアスファルトになっている。今その両側には大きなビルやアパートを建設中である。畳位の大きさのコンクリートのブロックを大きなデレッキで吊り上げ、積木細工の様に組立ててゆく。地震がないから鉄筋はいらぬ、セメントとレンガとガラスは輸出するほど生産しているから材料は充分、その上五ケ年計画中各人が三ケ月勤労奉仕することになっているから土運びは全く人海戦術そのままで、工事はどんどんはかどるのである。しかも彼等は今こそ祖国を奪還したよろこびに溢れている。運ぶ一石、一握の土、これが直ちに祖国の物であり我が家であるからその働き振は真剣そのものである。そこには資本主義も社会主義も何もない、ただ祖国あるのみだ。

 ホテル前の建設工事

 

4.5 朝鮮の英勇(雄)

  我々は戦勝記念館に案内された。ここには南北朝鮮の記念品が展示され見物には半日位かかる広い場所である。日本に南三郎と云う男が居て米国へひそかに「今の間に北朝鮮をおさえておけ」と助言したという書翰まで展示してある。そして南北戦争が始まったというのである。各戦線の作戦陣地の模型が沢山あって詳細に当時の戦況を説明してくれる。米軍の非人道行為、地下陣地を実物大に造り、北朝鮮兵の戦時中の生活様式を示している。何万人かの英勇の武勲を細々と記録してたたえている。

 夜は牡丹劇場に招待されて唱劇春香伝を見物した。しばらくぶりに美しい娘さん、きれいな衣裳、美しい舞を見て目がさめる様だった。演技も、舞台も実に立派なものでこれが朝鮮の芸術かと、初めて認識を新にした。なま臭い戦争の映画を見せられ、戦勝記念館の血染の戦衣を見たあとでこのきれいな乙女の舞うのを見て、これか同じ朝鮮のことであるとはどうしても思われない。翌日夜には芸術劇場に招待されて交響楽を聞いた。100人以上からなる楽団でクラシックの物ばかりやった。音楽学校の先生の独唱とピアニストの独奏もあり会場は超満員である。ここでも朝鮮の文化を再認識した。その後再び牡丹峯に招かれて崔承喜の娘さん安清姫が主演する玉蘭池の伝説を見た。薄い布をまとった人魚の泳ぐ踊りである、東京か大阪の劇場にいる様な気がした。朝鮮の女の衣裳はほんとに美しい物だと気がついた。脚本、振付、監督すべて崔承喜がやるのだという。崔承喜は日本で多年石井漠の門下で修業した人で今北朝鮮の人民俳優といわれ大臣と同格に待遇され専用の自動車を貰っているのだという。劇が終って最終幕に顔を出して挨拶したが、まだまだわかわかしい美人である。

 我々は4月6日朝早くから平南の潅漑工事見学に出かけた。ホテルからバスで5時間ゆられ大同江の水を取入れる所、延豊ダム貯水湖についた。湖水の面積は3,000町歩、この水を安洲平野に導くのに4粁のトンネルを堀り毎秒33屯の水を送っている。この水で8万7千町歩に潅漑している。これによって北朝鮮は食料の自給自足か出来る様になり、1日800瓦の米の配給か出来るのである。また5時間バスにゆられて平壌ホテルに帰ったのであるが、このバス、(否朝鮮の自動車はみなそうであるが)は15~20粁しか速度を出さない、日本の自動車なら2時間足らずで走る道程であろうと思う所を5時間かかっている。朝鮮では車を大切にすることと安全運転をすることが主目的で、早く走ることはそんなに重要なことではないといい、車を長く使用し長時間無事故運転すると英勇になるのである。英勇は表彰され賞金が貰える、どの職業でも英勇になると街角の表彰場に写真が掲示されるのである。

 板門店附近の煉瓦工場

校門店の中立委員会

 

4.6 板門店に停つ

  4月6日の夜12時の汽車で開城市へ向った。翌朝7時半開城につき朝鮮国際旅行社に入り休憩して間もなくバスで板門店に案内された。開城市は人口7~8万で昔から大学のある学校町である。戦禍は受けたがまだ半分位古い家が残っている。この町の人は昔から排他的で日本統治時代でも日本商人が育たなかった所だそうだ。高麗時代の都のあった所で南大門がその名残である。バスで30分南に走って板門店という寒村に出た、ここが朝鮮戦争で有名になった板門店で50坪位の談判場と200坪位の停戦調印場がある。何れも粗末な木造バラックである。ここで北朝鮮の将校リョウ大尉の得意な説明を聞いた。米帝国主義者が1948年李政府を造り1年に10万の兵を養い、全朝鮮を占領させ更に満洲まで侵略さす計画をたて、満洲侵略の時は米大統領も全面的に援助する、その代り米国に満洲の利権を与えよということを書いた秘書文書かあるという。1950年6月25日朝鮮戦争は始った。1951年7月10日より1953年7月27日まで停戦交渉が行われた。大体38度線を真中にして4粁の巾を非武装地帯にした、その近くに軍時停戦委員会、中立監視委員会の建物がある。停戦委員会の会議は83回開かれ南朝鮮の停戦協定違反は588件に及んでいるといっていた。この境界線の北側には北朝鮮兵がいるが、南側には米兵がいるだけで南朝鮮兵は一人もいない。これは南朝鮮人を第一線に立たせるとみな北朝鮮へ逃げてしまうから米兵が監視しているのだという。

 今まで朝鮮では仲々写真をとらせてくれなかったが、ここ板門店では自由にとらせてくれた。昼食は開城の旅行社で人民委員会副委員長のレセプションを受けた。珍らしい薬飯というものが出た、これはモチ米の中に松の実と栗の実の入った御飯で実においしかった。

 開城では38度線以南で戦死した1,400体の北朝鮮兵を祀る立派な墓地に参拝した。高麗時代の芸術品を保存している博物館、高麗政府最後の忠臣鄭夢周首相の暗殺された場所善竹橋を見物した。開城は朝鮮人参と高麗焼の産地であるが仲々に手に入らない。朝鮮人参は全部政府が買上げ輸出している。開城には一泊もせず夜の汽車で平壌へ帰った。

 開城の戦死者の墓

 

4.7 商談

  我々一行は24人であるが貿易商社が17社、船会社2社、メーカーが2社その他3人であった。朝鮮側の商社(国営)は6社であって、我々は第1回商談のスケジュールを組み1社に面談一回2時間と限定された。そして日本の全商社が必要な先方の商社に一回面談が終るまでは第2回の面談は出来ないことにして公平を期したわけである。各商社は夜12時頃までバタバタと電報を打ちに走っていた。電線は電気機械商社の窓口で購入されているのでその副社長と面談した。朝鮮では輸入品の中でも電線は甲類に属し非常に欲しがっている品物である。

 水力発電所は7つも大きな物かあって発電量は80億KWHに達している。しかし電線を買うにも今はバーター制で取引をしているから、日本側で朝鮮の物資を輸入しなければ買うことが出来ない。しかも現在では中国の大連港に荷上げして中国銀行を経て決済するという方法しか許されていないので商談は相当不自由な点がある。われわれ一行の商談は貿易の契約の外に直接貿易、直接決済の出来るように早くしたい双方の希望を話し合い、その促進に努めることを約束したのである。

 私は電気機械商社の副社長と電気技師に面会して現在朝鮮で使用されている電線について聞いたところによると、電線は主としてソ連のモスクワカーベル社の製品であるといい、最近の合成樹脂テフロンテープなどを使用し又アルミニゥムシースのケーブルを見本に貰って来た。水力発電所の送電系統は現在110KV、154KV、220KVであるか将来220KVと110KVに統一するのだといっていた。興南肥料工場や金策製鉄所の構内配電は66KV、22KV、で市内配電は3KVであるが将来6KV、10KVにする考えだという。最後に商談を離れてあなたか滞在中にわが国の現状を見て何か感想を話してくれといった。私は何もかも想像以上の復興を見て驚いた、しかもそのテンポが実に早いのには感心した、これこそ日本に帰って皆さんに早く伝えたいと思っていると答えたら、そんなにほめる面だけいわないで何か悪い点があったら遠慮なくいってくれというので、私は次のようにいった。貴国ではコンクリートのアパートがどんどん出来て誠に結構ですが、この建物はおそらく百年も二百年ももっでしょう、それなのにエレベーターもなければ部屋の中に電気の差込みも殆んどない、もっと太い電線を配線して各部屋に差込み口をつけてはどうか。今は仮小屋からコンクリートの建物に入るのだから、どんな不備な部屋でも又四階であっても何も不平はいわずよろこんで入りましょうが、今後5年もすれば貴国の人民の生活水準はぐっと上って電気洗濯機もラジオも扇風機も使いたくなるでしょう。四階までテクテク毎日何回も上下するのは耐えられなくなるでしょう。今から5年先を考えてすらこんなになるのですから、50年も100年も先はどうなるかわかりません、せめて5年10年先の用意だけでもしておいては如何ですか。副社長はだまってうなづいて聞いていた。私は更に語をついで、こんなことを私の口からいうと電線を売りたいからいうようにとられるかも知れませんが、私は電線屋だからこんなことに気がついたのですが、決して電線を宣伝しているわけではありませんと申し添えておいた。

 

4.8 日本の置土産

  朝鮮には紡績工場や織物工場は10社位あるがその中で一番大きい平壌紡績工場を見学した。この工場はソ連からのギフト10億ルーブルの中で復興したのだといい、爆撃された構内の半分位が動いていた。ソ連から6万錘の紡機と2,200台の織機と技術者か派遣されて1950年に仕事を始めた。1955年やっと現在の操業にもどり、従業員は9千人、綿、スフ紡績、織物、染色、メリヤス、最近は絹織物を始めた。綿織物は20~24万米、綿糸は31~32屯(10~80デニール)、染色は4,500米でチェコスロバキヤから優秀な捺染機か3台入っている。敷地は100万平方米という広汎なものである。

 われわれは4月9日夜平壌をたって興南、清津、茂山方面の地方視察に出かけた。朝食も昼食も汽車の中で、やっと日本海岸に出た。この国では日本海岸といわないで 東海岸といっている。中国でも満洲のことを東北地方といっている。戦争に敗けた日木はこんなことにもひびいている。この辺は魚の沢山とれる所で汽車の食堂でサシミを食べさせてくれた。又明太子が特産で海岸に干場が沢山見える。この海の向う側は舞鶴だ。こんな旅を続けると里心がつく、しかし実際すぐ帰るとしても北京へ3千粁、北京から香港まで3千粁、香港から羽田まで3千粁、合計1万粁の道程かあるのである。

 清津に着いたのは10日の午後6時半、人民委員会の方々の出迎えを受けてホテルに入った。清津の街は艦砲射撃を受けたとのことで古い家は全くなく、新しい家もまだまばらで区劃整理だけきれいに出来ている。11日の朝清津港を訪ね港湾長の説明を聞いた。少し狭いが深い港で6千屯級の船が岸壁に直接着き、1万屯級はすぐ近くのブイに着くという。今は全く淋びれて自国内航路の船が2隻あっただけである。日本のため朝鮮のため:にも清津港は大切な港で、早く国交を回復して茂山の無尽蔵の鉄鉱石を積出し日本の製品を荷上げするようにしたいものである。更にバスで金策製鉄所を見学した。支配人の説明を聞くと、構内30万坪に爆弾が1,500個落ちたという。今は大分復旧して現在銑鉄年間10万屯を生産し、5ケ年計画で100万屯にし、更に将来目標は200万屯といっていた。   午後2時の汽車で清津から茂山に向った。午後7時茂山駅に着き鉄鉱山の支配人のレセプションでクラブで御馳走になった。障子のある日本式の家で床はオンドルで暖かい。サシミ、テンプラ、栗マンジュウまで出て、例によって人蓼酒の乾盃で一行は気焔をあげ、そのあとで映画を見せられたが大方眠っていた。11時頃宿舎に帰った。宿舎といっても今日乗って来た寝台車の箱だけが駅の構内に置いてあって、その寝台車の中で寝るのである。この地には20人も泊る宿舎がない小さな町である。翌朝汽車の箱で眼をさまし茂山鉱山見学に出かけた。

 山の八合目までケーブルカーでその先は約30分歩いて頂上に達した。山は2千米位の高さでこの山全休が鉄鉱石で露天掘である。15米位ボーリングをやり、ダイナマイトを詰めて爆破していた。これを25屯のトラックで下へ運ぶ。これが35%位の含有量でコンベヤーで運ばれ選鉱されて55~60%の純度になって製鉄所へ送られるのだという。1958年度の生産は100~160万屯が可能だといい、5ケ年後には250~300万屯にするという。埋蔵量は15億屯といい100年間堀続けても大丈夫だそうだ。朝鮮の最大の宝庫である。選鉱物は三菱鉱業の造った大きな工場をそのまま使用している。午後2時半汽車で再び清津に向った。清津で始めて日本式の広い湯舟の風呂に入った時はうれしかった。茂山の汗とほこりを落して日本放送を聞いてくつろいだ。4月25日議会解散だ、15日から台湾政府と通商会談をするとか、マンザイ、ナニワブシも聞えた。

 13日汽車の窓で夜が明けて朝食に持参の握り飯をたべた。午後2時やっと咸興市についた。咸鏡南道の副委員長が出迎えてくれた。咸興は大分大きな町らしいが破壊されたままで余り復興していない。焼け残った松島旅館という建物を修理したホテルで休憩して、ここからバスで興南の肥料工場見学に向った。

 この工場は日本窒素が建設したもので実に立派な物で日本にもないような大規模なものである、支配人は殆んど爆破されたものをここまで復興したのだと自慢気に説明したが機械は殆んど日本製で三菱電機や東芝の物であった。現在40万屯の生産(日本時代は60万屯)で従業員は15,000人、敷地は200万平方米、技術専門学校が附属していて4,000人の技師を養成している。これも朝鮮のドル箱である。その夜11時の汽車で平壌に向った。

 9日の夜平壌を出て汽車に4泊、宿に1泊、14日の朝平壌に帰った時はほっとして郷里にでも帰ったような気がした。14日は1日休養してシャツも体も頭も洗濯してさっぱりした。ホテルの食堂では三度三度時間を定めて皆一緒に食事する。朝鮮料理は中国料理のように共同の皿に盛られた料理が多いからである。それだから毎日三度は顔を会わすことになる。今日はその食堂では話は一斉に帰国の話で持ち切りである。われわれの中には国を出てから5~6ケ月にもなる人が数人いるのだから無理もない。昨夜のラジオ放送で岸首相が中国の国旗掲揚を認めないといったとかで、日本商社の中国滞在延期はすべて認められなくなったという。第四次日中通商協定も中国側から破棄するという。こんな話でわれわれの帰国も間近くなったようだ。

 

清津市の新住宅

茂山のケーブルカー

茂山頂上のボーリング

茂 山 選 鉱 場

 

4.9 朝鮮の経済事情

  4月18日朝鮮国際貿易促進委員会の人の講演を聞いた。工業は240工場を復旧し80工場を新設した。新しい工業として内燃機関、工作機械、電機、ウインチ、特高変圧器等である。

 総合物価指数は1953年を100とすれば54年63%、55年60%、56年54%となり、46%下った。国民所得は146%に上った。第1次五ケ年計画は1957年から1961年であって、そのスローガンは社会主義経済の基礎を一層強化する、人民の衣食住問題を基本的に解決する、という2つを掲げて、節約と増産、対外貿易外貨獲得をモットーとしているといっていた。発電量は1957年69億KWH、61年に97億にする、石炭は57年500万屯で殆んど自給自足している、化学肥料は57年32.3万屯を61年に63万屯にする、セメントは57年89.5万屯、これを61年に175万屯にする、織物は57年1人当り8.9米を61年には18米以上にするといっていた。又対外貿易は3ケ年で2.1倍となった、食糧は58年度目標395万屯で自給自足している。

 教育は現在学生220万人で初等中学まで義務教育である。小学校3,882校、中学1,424校、高等学校127校、大学17校で現在2.6万人の技師がおり、ソ連其他に留学している学生が4,300人いるという。

 一方農業共同組合は年々増加して53年806組合、54年10,098、55年12,132、56年15,825となって、全農地の77.9%、全農家の80.9%に当るという。

 

4.10  朝鮮を去る

 われわれ一行は朝鮮滞在の予定3週間を延期して商談の締めくくりをつけて23日には半数の12人が朝鮮を去ることになった。日中国交悪化のため中国に一ケ月滞在する予定も許されず通過ビザ15日間を貰って帰国することになった。 19日には朝鮮対内外商業相のレセプションを受けるやら、そのお返しのレセプションをやるやら、朝鮮国貿促と日本実業団の親善通商コンムュニケに調印するやら、いよいよ平壌を去る間ぎわになると多忙に暮れた。共同コンムュニケには今回訪朝実業団は往復600万ポンドの貿易か出来て日朝の親善を増した、此上とも国交の回復を切望するという主旨の文面であるが、今直ちにこのコンムュニケを内外に発表すると、韓国を刺戟して釜山収容所の日本人の釈放が遅れるからという理由で発表の時期を延期した。24日午後4時50分われわれは国際列車で平壌を発ち朝鮮を去った。平壌駅頭では沢山の見送りの方々と固い握手をかわし再会を約して別れた。

                                              

 

5. 平壌から羽田まで

5.1 北京の打麻雀

 鴨緑江を渡り安東で午後11時は1時間の時差ですぐ24日になった。例によって税関の調べは兵隊さんの立会で厳重に行われ殊に写真のフィルムは現像してないものまで持って行って調べた。往く時は寒い夜中にふるえて調べを待ったのであるが、こんどは桜やアンズの花盛りのよい気候で夜は涼しい程度であった。満洲の長い広野の車窓も一度通った道であれば気楽で時間は早くたって、ドロ柳の芽も薄緑に色づき殺風景ではなかった。駅々には流石に字の国、宣伝の国、中国の大きな宇が目にたつ。東風破浪、互相支援、加強協作、家家愛清、浩的良好習慣、移風易俗改造国家、養成人人講衛生、除害雀鼠蛾蝿、など沢山書かれている。食堂の料理もボーイさんも中国の国境から一変して全く中国風となり一カ月ぶりで中国料理はうまかった。

 我々一行12人は再び北京に帰って来た。和平賓館におちつき北京の数日が始った。ホテルの窓の外に見上げる様な大きな楡(ニレ)の木があって、その上の方の枝に不思議な物を見つけた、女の人の実物大の案山子のような物がぶらさかつているのである。赤い着物を着た見苦しい案山子は何のまじないであろう、メーデーの飾にしてはおそまつだ、あとで聞いてびっくりした。というのは北京では二、三日前に雀取り(打麻雀という)が行われ240万市民が3日間仕事を休んで雀を取ったのである。屋根や大木の上に登って長い物を振りまわし、鳴物という鳴物を総動員して、一刻も雀をとまらせないように3日間追いまくったのである。雀は休むことも食うことも出来ずノイローゼになってパタバタ落ちた。その数40数万羽という。全く作り事のような事実があって、その時につかった人形の案山子であったのである。240万の人が3日かかつて40万の雀を採ったからといって自慢にはならぬがこんな馬鹿げた様なことでも、国家命令が速に徹底して完遂される国であるということが恐ろしいと思った。今中国では除四害雀鼠蛾蝿といって、この調子で次々に成果を挙げている。私は蝿を見つけようと思ってわざわざ汚い東安市場の中の公衆便所に入ったが蝿はいなかった、しかしこの便所の珍風景にはおどろいた、大便所は後と横だけ囲ってあって前かあいている、これが二列になって汽車の座席のように真中が通路になっているので、お互に顔を向き合って用をたしている。横の囲も腰の高さまでしかないから立つと遠くの人まで見えるのである。新聞を読んでいる人もある。蝿はいなかったが私にはどうも工合が悪かった。

北京城内王府井の洋車

 

5.2 故宮、万寿山

 旅行社の人の勧めによりメーデーを見物して2日の飛行機に乗って上海を廻って香港に出る予定をたてた。その間、公司や発電技師や日本から紹介された人々に会い北京見物をすることにした。幸に大連高商を卒業した中国人を知り終始親切な案内をして貰った。故宮、北海公園、大廟、王府井、東安市場、琉璃廠、明十三陵、万寿山、八達嶺の万里長城等を短時日の間に能率よく見物出来た。

 故宮は天安門の内外でメーデーの団体行進の予行演習をやっていた。当日引き廻す屋台も出来ていた。街の商店、役所、ホテルの門も飾られて金文字で慶祝五一と書いた額がかかっていた。天安門は真赤に塗りかえられて当日の盛儀か偲ばれた。故宮博物館は4日間ないと全部見られないというが、私共はその半日分だけ見物しただけでびっくりし又疲れてしまった。その昔いかに皇帝の威力の強かったことか!三宮七院七十―妃という妻を囲っていたという、その三宮七院の住んだ宮殿を見て廻ったのであるが、いづれも宝玉、宝物で飾られ艶を競って皇帝の足をとどめたと思われる節々か見える。中でも西太后の生活した御殿には世界各国、中国各地の最高級の宝物でいっぱいである。これは西太后か未亡人になってから否主権者になってから、文武百官かそのお気に入ろうとして競って献上したものだといい、当時の北京の美男は毎日一人ずつ奉仕して次々と姿を消したともいわれている。

 万寿山は西太后が当時政府の海軍予算を全部投じて北京の郊外に造った別荘である。平地に池を掘り山を築き壮大な御殿を造営し総て極彩色、色瓦の建物か湖水に映じて実に美しい。日本の日光を十倍にもしたらと思われる。ビルディングの様な大理石の石船、大劇場の舞台、湖水の廻りの柳、17目の橋、一日の行楽では疲れてしまう。丁度日曜日で沢山な人出で食堂は超満員で30分も待たされてやっと食事が出来た。親子連、老人夫婦、若いランデブーが今日は少し美しい着物を着て記念撮影をしている幾組かの家族連れもいて実に明るい世界であった。沢山の建物にはそれぞれ故宮以上の宝物が保存され30糎角位もあるヒスイが沢山あった、我々は東安市場でマッチの軸の頭ほどのヒスイを5千円だ1万円だとひやかしていたが、これを見てからはもう馬鹿らしくなった。西太后は実に世界第一のゼイタク者であったと思う。あの不運な満洲皇帝溥儀氏の祖母にあたる人で中国の帝政は遂に西太后の孫宣統帝(溥儀氏)で終ったのであるが、その理由もうなずけるのである。封建制度も将にその極に達しその反動こそ今の新しい中国であり今や社会主義下に栄えんとしているのである。

 

万寿山の十七目橋

万寿山の柳

万寿山の塔

八達嶺の万里の長城

 

5.3 万里の長城

 私共は日を改めて明十三陵、八達嶺の万里の長城を見,物した。北京からハイヤーで2時間半で八達嶺に連した、北京からは万里の長城に一番近い所は八遂嶺である。私は案内人の高さんに最初に是非万里の長城に案内してくれと頼んだ、高さんは不思議な顔をしてもっと北京には沢山見る所があります、何故万里の長城をそんなに見たいのかというので、私は月の世界から地球を見ると人工で造った物では万里の長城だけしか見えないそうだ、といったら高さん非常によろこんで長城はそんなに有名ですか、それでは行きましょうということになった。さていよいよ月の世界で見える万里の長城を見物するということになると希望者がふえてハイヤー2合に7人が分乗して29日の朝9時にホテルを出発した。途中北京城外の官庁街、更に学校街の文教地区を通った。今1万人収容するホテルも建築中だという。大学には必ず寄宿舎が附属していて、民族大学では中国共和国の少数民族60種の異った民族から学生が来ていて、それぞれ異った風俗生活が出来るようにわざわざ造った寄宿舎があるという。少数民族を非常に尊重しているという中国行政の一端がうかかわれる。この民族大学に学んだ者はそれぞれ自分の地区に帰って、その民族の幹部となづて中国共和国の建設につくすのである。北京大学は古い伝統がありアカデミックな方面に力を注ぎ各国から立派な学者が来ているという。人民大学は入学資格に必ず一定期間地方の行政に参加し党活動をした者であることになっていて、この大学で更に磨きをかけて再び地方に帰り活動するのである。ハイヤーはアスファルトの道路、両側の街路樹の間を一時間も走ったがその風景は少しも変らない。どれだけ長い真直な道であろう、単調といい殺風景でもあるが、これだけ同じ形の道路を続けて建設すると何か偉大な工事にも見える。

 次第に谷が迫って来て八達嶺附近は日本の箱根山にも似ている。山と山の間に唯一の通路が関所を通っている、その両方の山の屋根づたいに延々万里の長城は築かれている、一重だけでなく二重、三重になっている所もある。城壁は長さ50cm厚さ15cm巾30cm位の石を積み重ねて出来ている、城壁の高さは10m、巾6m位である。これをこの材料全部を使用して高さ10尺巾3尺に積みかえたら地球を―周することになるといっている。この莫大な石材を機械力のない時代に切り出し運び積み上げた労働力、人力はどれほどであったろう。当時この工事にかり立てられた労働者には随分悲劇があっで今でも劇となって残っているという。今また長江の大橋が人海戦術で完成した中国はやはりその先祖の血の流れであろうか、その動機は封建時代と社会主義時代とで白ど黒ほどちがうにしても人海戦術と云う手段ではどれほどもちがわない。やがて長江の大橋の偉業も長い長い歴史を経た後には万里の長城と同じように偉大なる物、偉大なる事業としてその当時の主権者の名のみが残ることであろう。

 '私共は長城の上をしばらく散歩した。曇った空で遠望はきかないが、山肌は褐色一色で木らしい木はなく雑木の葉も落ち淋しい景色であった。持参の弁当を開いて青空の下で昼食をとった。このあたり売店もなく人影もまばらで時折り馬に車を引かせ自分も車に乗って通り過ぎる二三人かあるだけである。

 八達嶺の帰途私共は明十三陸を見物した。明代の皇帝十三代の中で初代の皇帝の陵を長陵といってこれが一番大きく代表的もなのであるというから、これだけを見物した。廟に至るまで2粁位前から沿道には両側にハニワの一種であろうか動物や人の大きな石像が建ち並んでいる。廟はやはり極彩色の美しい大きな建物で、本堂と思われる建物は全部楠材で造られていて柱の太さはやつと二人でまわるほどである。その裏に土マンジユウの陵があり直径百米ほどの山の上は全面に桧の様な林となっている。丁度その時仏法僧が幾声か鳴き出した。

 「はからずも長陵に来て仏法僧」

 午後5時頃一日の見物を終えてホテルに帰った。

 明十三陵沿道の風物

明十三陸中の長陵

 

5.4 北京追放

  万里の長城からホテルに帰って見ると意外なことが起っていた、それは私共上海行きの飛行機の切符を購っていた三人に公安局から帰国命令が出ていたのである。私共は平壌で中国大使館から15日間の中国通過ビザを貰って来ている、その期間内に北京を見物し上海を廻って広州から香港に出ることにしていたのであり、旅行社の勧めに従いメーデーまで北京に滞在することにしていたのであった。4月30日朝、北京を出発して帰国せよとの命令はどうしても理クツに合わぬので、旅行社を通じて交渉した。しかも上海を廻ることは許さぬから飛行機の切符を取消して、北京から広州へ直行せよという。そして切符取消し料金約5千円を支払えというのである、余りにも無茶である。私は切符の手数料としてはどうしても払えないから中国の国法を犯して罰金に処せられたと考えて支払いますといって5千円支払った。旅行社の人は非常に恐縮していたが、私は腹が立ったので次のようにいい残して来た。中国という国はこんなことをする国とは思わなかった、この旅の印象は長く記憶に残るだろう、そしてまた何処へ行ってもこの話はするだろうと。

 八連嶺から疲れて帰って来ればすぐ帰国せよと追出しを喰い、たちまち忙しくなった。そこへかねて連絡していた第一機械総工会の副委員長の高首善さんが通訳を連れて私の部屋に尋ねて来てくれた。私は中国の工場を見学したかったこと、不法な追放を喰い5月1日の朝帰国することを述べたら高さんは、それはおかしい何かの間違いだろうといっていた。国と国との政治問題がすぐ旅行者にひびくようなことは今までなかった、自分も今メデーの前後は忙しいが、それが過ぎれば御案内出来るのだが、といって非常に気の毒がって再会を約して別れたのである。その夜は土産物を買うために案内人の高さんに連れられて王府井、琉瑠廠にも出かけた、象牙の箸や筆や墨紙まで買った。街は非常に暗くて町角毎に兵隊さんが沢山立っていて警戒が厳重である。高さんの話では今日はメーデーの前夜だから中国政府の要人が北京に集って来るので特に警戒か厳しい、この兵隊の外にヤン

チョ(輪タク)の姿で各所に警察が入っているのだといっていた。台湾のスパイが激しく出入するので常日頃でも中国の要人の居所は誰もはっきり知らないのだという。

 遂にわれわれはメーデーの朝4時に起されでバスで城外に出た、そして7時の飛行機で北京を追出されたのである。メーデー見物の用意に買った大きな麦ワラ幅子は無駄になったが、意地でも持って帰る決心をして飛行機に乗った。流石に旅行社の人は気の毒そうに最後までわれわれの荷物の世話などして丁寧な別れの挨拶をして去った。

 

5.5 再び揚子江大鉄橋を渡る

  メーデーを眼の前にして追放とは全くなさけない限りであるが、1ヵ月前来たコースを逆に南へ南へと飛び鄭州、武漢、長沙、広州をへて香港から羽田へ帰るのだから、来る時の未知の世界への心細さとはちがい、先へ先へと気楽さが増して来る。耳がひどく痛くなる中国の飛行機もいち早く耳に綿を入れて防ぐことを忘れなかった。武漢飛行場に近くなった時、急に天候が悪くなって腰のバンドをどんなに締めても体か浮いてしまう。棚から物が落ちてくる、隣席の中国人は嘔吐して苦しみだした。私も時々力のぬけたように気分が悪くなった。着陸した時はほんとに助った。間もなく本日欠航ときまり往く時に泊った璇宮飯店に泊ることになった。丁度今武漢で日本商品の見本展の開かれたあとで日本人が―階層全部を占めていた。私は一番上等の部屋に割当られ王様になった様な気分で一夜を明かした。立派な応接間つきで、きれいに刺繍のどんすのクッション、往きも還りも飛行機の都合で泊っだのだから宿料は無料である。食費だけ支払ったのである。外は小雨が降っているが寝るには早い時刻なので街を散歩することにした。雨が降っていても傘をさしている人は見えない、中国でも朝鮮でも少々の雨では傘なんかささないらしい。日本では原子灰を含む雨だからといってあわてて傘をさす、女の人なんかは傘では着物が汚れるからといって自動車をはりこむのであることを思い出した。電灯の暗い街である、建物は5階6階と立派なものであるが、高い窓に干してある洗濯物を見ると一般庶民の住宅であることかわかる、おそらくその昔大きな外国商店商社であづだ建物が今は全く庶民アパートになってしまったのであろう。暗い通りには人間の数は実に多い、商店の品物も相当豊富である。

 長江の大橋が出来てから中国大陸の南北の交通は非常に便利になって武漢市は物資の集荷地、工鉱業の中心地として将来益々繁栄する土地となるであろう。武漢の夜は短かった、朝4時に起されて5時にホテルを出た。街はもう沢山な人である、工場に出勤する人であろうか朝食堂に列をなして並んでいる、朝食堂といっても露店に台がおいてあって自分で運んで食べているのである、各自が自分の家で朝食を炊くよりこの方が合理的だからこんなにはやるのかも知れない、日本の工場街でもこの種の簡易食堂か出来たら便利であろう。百姓ももう野良仕事に出かけている、実に勤勉である。四度長江の大橋を渡って飛行場に向った。

 

広州の見本市会館

広州見本市内部

 

5.6 中国見本市を見る

  武漢の飛行機は天候を気づかっていたが約一時間遅れて飛び立った。長沙で小休、更に広州に飛んだ。真夏の太陽の照りつける広州飛行場についた時は私の持ち帰った大きなムギワラ帽子は一度に値打が出た。一行の人にうらやまれサッソウとして大きな帽子をかぶって、愛群大厦(ホテル)に入ったのは午後1時であった。東邦商会の佐柳さんの案内で中国交易展を見に行った。丁度中国商品の展示会か開かれていて、招待された外人でホテルは満員である。日本人も百人位いるという。中には岸発言がたたって北京を追出された日本人も沢山いた。見本市を見て中国の産業のレベルの意外に高く広いのに驚いた。農水林産物は亜熱帯から寒帯に至るまで長い広い範囲の物資か実に豊富である。工業品もモーター、自転車、旋盤、メリヤス機械、自動電話交換器、オシログラフのついた計測器まである。昨年の交易会を見た人の話では全く商品の種類が変って新製品が非常に多いといっていた。その後間もなく中国第一号乗用自動車が出来て本年5月の党大会に毛主席が乗ったという。万年筆でもパーカーとパイロットに次ぐ様な優秀な物を造り英雄と命名しているという。万年筆の研究のために数十人を動員して日夜専念させているという。こんな調子では日本から売りに行く品物が段々なくなってしまうのではないかと思われるのである。

 翌朝8時にホテルを出て汽車で九竜に向った、旅行社の陳恵娟さんが中国の国境深圳まで送ってくれた。彼女は終戦まで東京にいて東京の女学校に学んだといい日本語は非常にうまい、その上英語もロシヤ語にも通じている仲々のインテリである。車中いろいろと珍らしい話をしてくれた、中国社会主義政策のいかに実効をあげているかを説明するのである。沿線の禿山に植林したこと、蝿の少ないこと、失業者のないこと、犬のいないことを詳しく述べるのである。朝鮮戦争の時米軍が北朝鮮軍を追いまくり満洲まで攻める予定であったのに北朝鮮軍は強くてさっぱり後退しない、それは満洲の方から中国の援護物資が供給されていたからである。これを知った米軍は夜ひそかに高度の上空から細菌をつけた蝿を沢山入れた箱を投下した。満洲はこの細菌に悩まされた、そこで中国政府はこの蝿を退治することを厳命したのである。同時に細菌を媒介する物として犬を全部殺させたのだという。以来中国には犬は居なくなり蝿の駆除が習慣となり、いなくなったのだと云う。陳さんは又いろいろの植物の名前も教えてくれた。公園にきれいに咲いている香のよい千層樹、鉄道の沿線に蜿々と植林されている相思樹、禿山に植林した馬尾松は紙の原料になるのだと仲々物知りである。

 深圳の駅の食堂で中華料理とビールとジュースで陳さんと乾杯して別れを惜んだ。

 

5.7 香港から羽田へ

  陳さんとの別れに時間を使い過ぎて我々が羅湖まで歩いて来た時は汽車が出たあとで、それから2時間待たされた。羅湖は香港政庁最初の駅である、蝿がいる、物売りがうるさくやってくる、賑やかな資本主義国に入ったのである。車窓の景色はー度にパッと明るくなる、海水浴場か見える、女の豊満な水着姿が目に入った時は一行は思わず窓際の席を争い合った、船だったらテンプクしたかも知れない。

 「香港はまぶしかりけり支那の旅」

 沢山のデラックスの自転車、建物の白さ、明るい着物の色、長い眠りから今覚めた様だ。蝿がいても物売がうるさくてもやはり我々にはこの世界の方が住み易い様だ、午後6時九竜駅に着いた。中国旅行社の鐘さんに迎えられてシャムロックホテルに入った。8階建の立派なホテルである。窓際にルームクーラーがついているので涼しい。夜は対岸のビクトリヤ島(香港島)へ渡り土産物を買った、時計、万年筆、洋服地、煙草は非常に安い、日本の半値位である。ごまかされない様に鐘さんの案内で買物をした。往く時に見た香港と五十日中国、朝鮮を見て来た今見る香港とは全く別物の様に何もかも美しく見えてならぬ、香港でよろめくというのはこれだなと思い当るのである。

 翌5月4日いよいよ香港最後の日だ。朝から鐘さんの案内で香港島の山の上までドライブした。海水浴場、万金油の財閥胡家の邸宅(公園として一般に公開されている)は実に贅を極めた屋敷である。香港島は山の上まで立派な道路で立派な自動車が引っ切りなしに続いている。香港の自動車はみな新品で香港の中古品が九竜に行き、九竜の中古品が東京へ売られるのだといっていた。海水浴場は5月になったばかりというのに日本の8月の盛夏の日ざしで黒白茶色の人種が仲よく遊んでいる。ここで昼食をとった。生きているエビを見せに来た、ここでは生きている魚を売らないと営業停止になるのだそうだ。

 夜ホテルヘ東邦商会の斉藤さんが訪ねて来てくれた、斉藤さんは日本の商社10人と北ベトナムヘ商談に行って来たのである。電線の注文9千万円を契約して来たといって私にその契約書を渡した。私は斉藤さんより一足先に帰るからである。北ベトナムといえばまだハダシで暮している後進国である。そこで電線を9千万円購うのである、今世界にはこの様な後進国といわれる独立国が沢山ある。これ等の国民が皆電線を欲しかつているのだと思うと、いかに電線は人類の生活に役立ち文化を上げる必需品であるかを今更ながら痛感するのである。

 5月5日いよいよ香港を去る日である、大陸を離れる日である、そして羽田に着く日である。日本に帰るのだ。丁度日本は5月のゴールデンウィークで会社に電報を打っても休みだから西宮の自宅にだけ帰国の日時を知らせた。あいにく天候が悪くて午前10時出航の予定が午後1時になった。香港よさらば、大陸よさらば、60人乗のエアインディア機は飛び立った。香港上空はガスか深くて何も見えない、しばらくして晴れた空に出て2万フィートの上空から台湾を見た時は実に美しかった。箱庭の様だ、緑が美しくサツマ芋の様な形の島だ、我々は香港から羽田行きの飛行機で台湾に寄らない飛行機をえらんで乗ったのである、というのは中国(中共)や北朝鮮へ行った者が台湾に降りると飛行場で厳しく調べられると聞いたからである。飛行士は印度人でスチユアデスは日本娘と中国娘であったから日航機と同じ様に日本語で親切にしてくれた。日本のチュウインガムと印度のチュウインガムと称するものをくれた、何か木の皮か根を砕いて乾かした様な物でこれを三、四粒口に入れてかむと口中が涼しくなるのである。昼間の空の旅は快適である。台湾を過ぎた頃海上に一片の木の葉の様に大きな汽船が、いや小さな汽船が二隻いっしようけんめい走っている、いや止つている様に見える、池の中のオモチヤの船の様だ、きれいな海、ホコリ一つない海の上に鉛筆の削り屑の一片でも落ちた様に見えるのである。あれでも港へ入れば1万か2万トンの大親分で太い太い汽笛を鳴らすことであろうが、大海の上ではあわれむべき姿でしかないのである、あの南極で氷山の間にはさまれた宗谷丸の心細さも想像出来ないことはない。日本本土に近い頃また少し曇って下界は見えなかった。京浜地方の電灯が少し見え出したと思う間もなく羽田空港にすべり込んだ。無事3千粁を6時間半で飛んだのである。そして私は日本に帰ったのである。タラップを降りる時向う側の出迎えの方々が手を振っている、私は例の大きなムギワラ帽子を大きく振った、知った顔は見えない、同行の横浜ゴムの山田さんは数人の家族からパパー、パパーと呼ぱれている、私も岡山の本田さんも相手がない、呼んでくれる人がいない、大きな荷物をさげて検閲をすませ外に出た。少し気がぬけて放心状態である、兎に角ホテルに電話して部屋をとり、タクシーを拾って京浜国道を一路第一ホテルに向ったのである。ホテルの一室に落ちついた私はやはり唯一人である。誰も迎えてくれない淋しさと、やれやれ無事でよかったとよろこぷ心と入り交ってしぱらくボーっとしていた。そうだまだ夕食を食べていない、9時だから食堂は閑っているので地下のグリルに入った。エビとサラダを注文したか何やら物足りない、ビールを飲む気になった、私は自分独りでビ-ルや酒を注文したことがない、それに一本は飲み切れない、小ビンはないかと尋ねたらあるという、その小ビンを飲んで独りささやかな帰還祝をやったのである。それでも初めて外国に出た私には、ほんとに無事でよかったよかったと自分をねぎらってやったのである。     、

 「還り来て祖国の味やビール飲む」       

 そして帰国第一夜は独り静かに夢を結んだのである。それにしても大陸の皆様、朝鮮の皆様には数々の御好意有難う、他日これに報いる日を約束して筆をおきます。

                                                     (完)

 

(HP掲載に当たっての註)

 *大日電線株式会社は1964年日本電線株式会社と合併して大日日本電線株式会社に、その後1986年(昭和61年)三菱電線工業株式会社に商号変更している。山村義雄氏は長く尼崎工場長を務められ、この出張記録は1958年の旅行後、社内報か(不詳)に二回にわたって分載された。
 *山村氏はこの文章では、国として「北朝鮮(正式には朝鮮民主主義人民共和国)」、地域としては「北鮮」と呼んでいる。1950年代の朝鮮、中国、日本の様子、その相互関係を表す貴重な記録としてここに掲げるについて、「北鮮」とある個所をとりあえず「北朝鮮」に語句変更した(上記のように元来「北朝鮮」としている所も多い)。妥当かどうかについてはなお検討したい。
 *元来掲載されていた写真は、参考のためにキャプションのみとった。

         青丘笑話  5 北朝鮮の電力事情  2001年  (全朝教大阪)->