申采浩 シン・チェホ(1880―1936.2.11)
朝鮮の独立(革命)運動家、思想家、朝鮮近代の歴史学(民族史学)を確立した歴史家。 号は丹斎(タンジェ)。韓国忠清南道大徳郡山内面於南里で生まれ、家庭で伝統的な儒教教育を受けた。
1898年漢城(ソウル)の成均館で伝統的朱子学を学ぶかたわら「独立協会」運動の中で新思想に目覚め、以後、近代国家創設をめざす新思想の普及鼓吹に尽力した。 1905年11月18日、第二次日韓協約(保護条約)が結ばれると、「皇城新聞」(11.20)に「是日也放声大哭」という文章を発表、韓国主権の喪失と日本の侵略に警鐘を鳴らした。さらに「大韓毎日申報」を通じ、日本の侵略と自国親日派の売国行為を厳しく批判して国権回復を訴え、「愛国啓蒙」運動の中心的存在となる一方、1907年4月には独立戦争を準備する秘密結社「新民会」に参加した。 「乙支文徳」(1908)、「水軍第一偉人李舜臣伝」(1908)、「東国巨傑崔都統(崔瑩)伝」(1909)、などの著作で独立を鼓吹、また「読史新論」(1908)によって朝鮮近代歴史学、民族史学の基礎を築いた。
1910年、亡国の直前に国外へ脱出、独立運動の最大の基地ロシアのウラジオストクで活動した後中国に移り、上海、北京で活動した。その間、白頭山山麓を踏査し、集安の高句麗遺跡も巡検している。 1919年3・1独立運動による上海での大韓民国臨時政府成立にも参与したが、李承晩の大統領就任に反対、以後あくまで武装独立戦争を目ざすグループで活動、義烈団の「朝鮮革命宣言」を起草した。 その後、北京の申采浩は困窮の中で仏教研究、歴史研究に打ち込み、「朝鮮上古史」(1924年執筆、1931年ソウルで刊行)、「朝鮮史研究草」(1930年ソウルで刊行)を構成する諸論文を次々と執筆、近代民族史学の確立をなし遂げた。(原稿は国内に持ち込まれ、新聞に掲載されて出版された。) やがて民衆の視点と無政府主義に関心を寄せ、1926年「在中国朝鮮無政府主義者連盟」に加入、1928年4月独立運動資金調達のために台湾に行ったところを日本の官憲に逮捕され、1936年旅順監獄で獄死した。 遺骨は密かに祖国に持ち帰られ、彼が育った忠北清原郡琅城面帰来里に墓が作られた。
LINK 申采浩(大韓民国独立記念館)
申采浩の歴史学の基礎となる思想は、朝鮮儒学の伝統から出発して、やがてそれを脱却、君主への忠誠から国家、国民(ナラ)への忠誠、そして独立革命の主体である民衆への忠誠へと深化していった点に特徴がある。特に、古代以来一貫して中国とは異なる独立した文化を持った国としての朝鮮の歴史を初めて実証的に確立した。その点で檀君「信仰」とは違いがある。そこには、朝鮮王朝後期の実学思想の中で生まれた歴史観や、同時期の日本や中国から伝えられた新思想が影響を及ぼしている。 その内容は、古代史においては、古朝鮮の中心地および漢の楽浪郡が遼東(現在の中国東北)にあったとする説、吏読(リド、漢字による朝鮮語表記)を駆使して解明される中心地ピョンヤン(平壌)の複数所在、地名移動説、高句麗が古代朝鮮史の中心の国であったという位置づけ、新羅花郎に見られる自由な団体形成の伝統の発見、さらに中世以後高麗朝でピョンヤンを舞台にした僧妙清の反乱(西京の乱)の意義と「三国史記」編纂の意味、朝鮮朝儒学史の中での鄭汝立のような反逆者の再評価などがある。また、そうした史論の根底に、深い仏教哲学の理論、朝鮮儒教の伝統、ルソー、ブルンチュリーから幸徳秋水にいたる近代思想の最先端が踏まえられており、その歴史的見解のベースは日本の朝鮮史研究創生期の白鳥庫吉や鮎貝房之進、前間恭作らの研究と類比され共通するところも多い。 朝鮮の新聞ジャーナリズムの創成期に活躍し、後に歴史研究に入ったことでは、中国の梁啓超と揆を同じくし、日本の内藤湖南とも似ている。彼の「朝鮮上古史」緒論は構成において梁啓超の「歴史研究法」の強い影響を受け、また梁啓超を通じてフランスのセニヨボスの歴史学を継承しており、この点で日本の歴史学がリース以来ドイツのランケ史学をもっぱら継承したのとは大きな違いがある。
参考 梶村秀樹「申采浩の歴史学―近代朝鮮史学史論ノート」『思想』537号、1969年
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