章炳麟WEBPAGE―章炳麟の歴史学  (制作中)


 章 

 章炳麟 (1869—1936.6.14)

 近代中国建設を切り開いた革命家、思想家で、孫文、黄興とともに「革命三尊」の一人に挙げられる。また「国学大師」「経学大師」と称賛される中国伝統的学術の大家。
 浙江省余杭(現在は杭州市余杭区)の出身で、幼少より伝統的教育を受け、清末の大学者兪樾から教えを受けた。名は絳また炳麟、字は枚叔、号が太炎。
 清末、鋭い言論を武器として「種族革命」(満州王朝を打倒し漢民族の光復をめざす)を主張、保皇党(康有為ら清朝の下での改革をめざす変法派)と激烈な論戦を展開した。「蘇報事件」で入獄後、日本に亡命して中国同盟会の機関紙「民報」の主筆を務め、さらに「革命」を鼓吹した。同じく日本留学中の魯迅も彼の下で学んだ。(写真は日本留学中のもので、日本の着物、和服を着ている。章炳麟は清国満州王朝の胡服に対して、漢民族の古来の伝統的な服装が日本の着物のうちに保存されていると考えていた。)


 辛亥革命(1911年)後は政治的には保守派となったが、その後も袁世凱に反対して捕らえられ軟禁されるなど、「七たび指名手配され三たび牢獄に入った」というように、生死を度外視して信条を貫いた。
 晩年は蘇州での国学講習会などで民族文化の継承、学術講習に力を尽くした。1931年以後日本の侵略が激しくなると、蒋介石の「攘外必先安内」政策(日本への抗戦よりも国内の共産主義撲滅を優先しようとするもの)に反対し、「抗日」を訴えた。
 1936年6月14日、病のため蘇州で逝去、享年69歳。墓は杭州南屏山茘枝峰の下に移葬された。

 

LINK 章太炎故居(章炳麟の出生地、杭州市余杭区)

 

    章炳麟は、康有為(1858-1927)ら「今文」学派―「春秋」公羊伝にもとづいて歴史と政治を論じる―に対して、古来それと対立してきた「古文」学派―「春秋」左氏伝による―、漢代の劉向劉キン(音+欠)以来の中国の伝統的学術、経学の継承者であり最後最大の総帥である。彼の歴史学はそうした立場から作られた。また、唯識など仏教思想を究めたことによる彼の歴史哲学は、近代的歴史学の前提となるものであった。
  その理論は、難解と深奥の極みとされるが、それこそが中国文明の一つの伝統を示すものであり、甲骨文字発見などその後の学問発展によって否定されてきたその内容に対しても、近年見直しが行われている。

参考 原島春雄「章太炎における学術と革命―「哀」から「寂寞」まで―」
     (『思想』708号、1983年)