前
田夕暮
(1883-1951)
歌人。神奈川県生まれ。本名、洋造。「詩歌」を主宰。「明星」の浪漫主義に対抗し自然主義を標榜(ひようぼう)、若山牧水
と並び称された。のちに口語自由律短歌をも手がける。歌集「収穫」「生くる日に」など。(大辞林より)
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| 前田夕暮 第三歌集『生くる日に』 大正三年に刊行された『生くる日に』には、夕暮の三十一歳から三十二歳の作品、五三四首が収められいる。鮮やかな向日葵の黄色が視角に訴えてくる有名な 一首「向日葵は金の油を身に浴びてゆらりと高し日の小ささよ」の所載されている歌集である。この向日葵の歌はもとより絵画的であり鮮明に色彩の立ち上がっ てくる作であるが、夕暮の歌集にはこの様に色彩を持ち込んだ作が非常に多い。夕暮短歌の一つの特質ではないだろうか。 そこで歌集『生くる日に』における色のあらわれ方について少し考察をしてみたい。 最もよく用いられている色は青で「六十七首」次いで赤「五十六首」黒「四十五首」白「二十八首」黄「十四首」の順であり、その他(紫、茶、青白、金茶、 光)が十四首であった。これを合計すると二百二十四首となり全体の四十二パーセントに及ぶ。その他にも暗い、光りなどを加えると半数以上が色を用いた作品 となる。次ぎに、それぞれの色について作品を少し抄出してみる。 ○我が心をしどろもどろに染めにける青き繪の具の如き悲しみ ○冬の朝の空の青きにゴシツクの高き建物みるは悲しき ○冬草の青をことごと摘み捨てむ岬に来たりうら悲しきに ○さ青なる入江に浮ぶ船にのみわが悲しみの流れてつきずも ○人間のかなしみに酔ひうたふらむ望樓に灯の青む夜ごろは これら五首の「青」は全て「かなしみ」という言葉と共に使われている。また「わがこころのふるさとの色青の色南アメリカに生うる護謨の樹」とも詠んでお り、「青」は夕暮にとって自己の心の象徴としての色でもあるようだ。それは又、歌の中に悲しみを立ち上がらせる「青」なのであろうが、現代の若者がブルー な気分などと「悲しみ」の心を表現することと何処かで通じるものを感じる。 ○あかあかと心狂ひてとびめぐる夕日に投げしししむらのうへ 〇入日あかし農夫が負へる枯草に火を放ちなば慰むべきに 〇みてあれば赤く濁れる太陽は血を噴くごとし空は暗かり ○気ぞ狂ほし赤潮のごとく一面に風濁りなせり暮春の空は ○きちがひの眠れる部屋にあかあかと狐のかみそり一面に生えよ 「赤」が詠み込まれている作である。「赤」は「狂」という言葉と共に詠われたりすることも多く、どうしようもなく激しい心を煽り立てる色として扱われて いる。「青」と同様に心を写生するために繰り返し使われている色彩である。 〇紫がかり黒みをおびし臭木の葉重く心におひかぶさりぬ 〇あぶらぎりたる日光のなか向日葵はわが世の隅に黄にたてりけり 〇人間のまして男の強きにほひ部屋にまよへり木蓮白き 〇黒き夜の大いなる蛾ぞわが背に這へるを感じ呼吸つまるごとし 〇一輪の黒きだりあぞ底暗く夜をふくめり我が前にありて 紫、黄、白、黒などが詠み込まれている作である。様々な心の状況を色彩で短歌に昇華しようとしているようだ。この歌集には「悲しい」「寂しい」等という 直接的な心の描写が多いが、ひとくくりには出来ない「悲しさ」や「寂しさ」の状態を色彩を用いて視覚的に訴えることで描写しようとしたのであろうか。 色の使われ方について今一度、検証することも夕暮短歌を認識するためには有効なことかも知れない。 前田夕暮 第 四 歌集『深林』 〇もの思う心は地にをりながら猶青空をみもるなりけり 空と地が詠みこまれている作である。一首目は晴れた雪野の風景。ここで注目すべきは〈もとなる〉と詠む夕暮の視点であろう。二首目は青空を確認しうるこ とで自己の心の居場所が地であることを再認識している作である。 夕暮は第二歌集『生くる日に』においても「空」と「地」(土)は多く詠みこんではいるが、第三歌集『深林』に於いては、それが一層顕著となっている。因 みに『生くる日に』(五三四首)中に「空」が二三首「地」(土)が一五首詠みこまれており『深林』(四六八首)中には「空」が四六首、「地」(土)が三六 首詠み込まれている。 斯くのごとく『生くる日に』から『深林』に至って「空」と「地」(土)は量的に増えた素材であるが、質的にも一層の深化を見せている。作品に沿って少し 考察してみたい。 〇日光のなかにただよへ青空にただよへ吾児のいのちのほむら 〇大空をみいる我が児の顔あかくほのかに染むる秋の夕焼 〇子供らは土手にひそまり空をみるまた一人きてならびけるかな 夕暮は大正三年に三十二歳で長男「透」を得ている。一、二首目は、命の絶対的背景として「空」を認識し、生まれたばかりの我が子の命を瑞々しく歌い上げ ている。三首目は自分の子供ではなく、一般的な子供たちであろう。幼い子供達の命と宇宙が、一体であるような、呼応しているような、奥行きのある世界が描 かれている。〈ひそまりて〉〈ならびけるかな〉は単なる写生の言葉ではなく、風景の核に迫るための必然的な言葉、つまり要素なのであろう。静かな風景の中 に見えてくるのは宇宙のなかに存在している子供達の厳然たる命である。 人は子供を得た時、理屈ではなく宇宙の中に生かされている命を実感するのかも知れない。それは夕暮とて例外ではないだろう。 香川進は『鑑賞 前田夕暮の秀歌』(短歌新聞社刊)において次のように述べている。「『生くる日に』が断片をとらえ、断片そのものに終始しがちであった に反し、『深林』の作品は全体のなかに楚々とした捕らえがたいものを歌っているのではなかろうか。」と。 即ち、この「空」に対する向かい方等には、まさにそれが現れているように感じる。 〇久しくもふまざりしとてしみじみとふみたる土の足ざはりはも 〇我が足にふまれしゆゑに我が足のもとにてくづるる土の親しさよ 〇ききあれば心さびしもさむざむと空のもとにて物あらふ音 〇草にねて青麦の穂とすれすれの空みてあれば啼くか雲雀は これらには、おのが生命の居場所としての「土」そして、その生命を抱く
宇宙としての「空」とが際やか自覚的に詠みこまれている。土を踏むことは命を実感するこ
と。空の下での命のささやかな営みを夕暮は自覚的に詠んでいる。第三歌集『深林』に於いて空と地(土)は見過ごしに出来ない大いなるメタファーと言えよ
う。
頁のトップに「好日」2000年9月号所載
前田夕暮 第五歌集『原生林』 奥秩父の滝川と入川に古い森林軌道の跡が今も存在している。前田夕暮が社長として設立した「関東木材合名会社」が伐採木材搬出用に敷設した軽便鉄道であ る。「関東木材合名会社」の事業は「秩父兵器株式会社」「西部木材株式会社」へと引き継がれ、森林軌道は70年代まで使用されていたらしい。 夕暮は大正六年に父を九年に祖父を失っており、その後の数年は、前田家の整理、父の山林事業の引継など文学活動以外の現実に奔走している。好んで継いだ 家業であったか否かは解らないが、大正九年頃は奥秩父の山林事業に専心している。又、父の亡くなった頃から丹沢の森林地帯、酒匂川水源地帯など丁寧に歩い ている。引き継いだ山林事業と関わりがあるのかもしれない。そして、大正七年十月には『詩歌』を突如廃刊にした。理由は定かではないが林業への専心も一つ の要因ではなかろうか。 第五歌集『原生林』は林業に専心していた大正七年から十年、歌壇と関わらずに詠まれた作品から成っている歌集である。その中でも大正九年に詠まれた奥秩 父での歌は、書斎を離れた夕暮の視座が、時代を自然を背景に窺えて興味深い作品群である。 〈奥秩父その一〉から 〇空濶く日は照りながら嚝野行く人はかくろふ雪解の靄に 〇枯草にこやりてあれば空青し索道の線の太く横ぎる 〇鑛石を運ぶ索道のバケットのはろばろと来たる雪空のもとを 〇菜畠にはだら雪ふりすれすれに索道の線のたるみたるかも 〇旅にゐて朝をめざめつ残菊のしろきに心ひきしまりたり 〈奥秩父その一〉には、奥秩父の山中で働く人々が風景の一部として写生されている。夕暮は風景を眺めている人であり、風景について何かを思う人である。 夕暮と風景の間には歴然とした隔たりがある。索道は鉱石を入れたバケットを運ぶロープウエイ、山を渡る一本のロープが自然の中に強く描写されている。奥秩 父での林業に関わろうとする寸前の視座が捉えた風景であろう。 〈奥秩父その二〉から 〇足うらに朝をしたしきあらむしろ寒かりければ足袋ははきたり 〇人夫小舎の前をとほりしにあかあかと焚火してをり何か楽しき 〇おのれひとり働かざりし淋しさよあかき焚火にあたらせて貰ひぬ 〇トロ押しの額の汗のいとしもよ枯草の葉にこぼすその汗 〇日のあたる山仰ぎつつトロ押しはトロ押しにけり山の底ひを 〈奥秩父その二〉には、原生林の伐採事業に与している夕暮の現場が描写されている。不慣れな林業経営は、旅人の視座とは異なる風景を夕暮に与えたようで ある。伐採した材木はトロッコに積んで軌道を人力で押し運んだ。三首目の〈あたらせて貰ひぬ〉は肉体労働者である人夫と自己との懸隔感の表出である。又、 人夫の汗を景色としてではなく自己の問題として身に引きつけて描写していることもこの期の特色であろう。 〇洪水川あからにごりてながれたり地より虹の湧き立ちにけり 洪水の起きている大地にたつ鮮やかな虹。大地への信頼を象徴する神秘的な作である。が、洪水は伐採の結果かもしれないのだ。当時、夕暮のみならず誰もそ んな因果を考えることはなかっただろう。伐採し燃料を生み出すことこそ時代の要請であったのだから。一首の風景が時を経ることで別の見え方を始めることも あるようだ。 元来、奥秩父の森林は江戸幕府の御林山で立入禁止地域であったこともあり長く原生状態が保たれていた。この原生林に斧が入り大伐採が続き山はすっかり荒 れ果ててしまったという。その回復には気の遠くなるような時間がかかるとのことである。 「好日」2001年9月号所載
前田夕暮 第六歌 集 『虹』 歌集『虹』に収録されている短歌、三六五首中、接続助詞「ば」が用いられている歌は三六首であった。つまり、ほぼ一割の歌に接続助詞「ば」が使われてい ることになる。一割と言えば、「多用」の部類に入ると言えるであろう。接続助詞「ば」は 未然形に接続するか已然形に接続するかで、やや意味や用いられ方を異にするが、「何々ならば何々である」といった形で、仮定条件、前提条件などの条件を示 すことが多い。 つまり、接続助詞「ば」を用いることは、自己の認識をストレートに表出することである。このことから接続助詞「ば」が用いられた作品を考察することも、 この時代の夕暮短歌を解明する一つの方法かも知れない。 作品にそって、そのあたりを少し考えてみたい。 ○うすあかき欅の梢こまごまと穂立つをみれば春あさみかも ○朝風に吹きあふらるる青樫のざわめくみれば既に春なり ○甘露木の花さくみれば夏すでにおそしと思ふ山ふかくきて ○春の草烟らふみればうつつなくおのれを厭ふ心忘るる これらには「みれば」が使われている。一、二、三、首目は「〇〇を見れば春(或いは夏)だった」と詠んでいる、即ち〇〇を見たことで作者は春を(夏を) 認識できたのである。極論すれば〇〇が見えなければ春ではないわけである。つまり作者は予め春の条件である〇〇を知っているわけである。やや認識が表立っ ている三首と言えよう。 四首目はどうであろうか。春の草の烟らふさまを見たことで自身の心を大げさに言えば変革させている。つまり、下句の「心」を動かしたのは「みれば」なる条 件の力である。四首目は「みれば」が一首の要となっている作品である。 ○日はさむし暗渠の上を行きたれば水のながれの身にひびきけり ○宵あさき山越え行けば残雪をうつ雨の音も冷たくはあらず ○行き行けばさしかはしたる木木の枝はらはらと傘にふるる音す ○うらさびて野を行きければ路の邊の晡天の露佛みすぐしがたし 「行きたれば」「行けば」「行きければ」等と「行く」を条件として一首を展開している作品群である。一、二、三首目、「行けば」という条件下での身体感 覚での発見が詠まれている。四首目も同様に行ったことでの発見を全身で喜んでいる。 「行く」とは身体を動かして移動することである。「みれば」が脳の世界、つまり観念を呼ぶ傾向があるのに比して「行けば」は身体の世界、つまり身体感覚 を呼ぶ傾向があるようだ。「行けば」を用いた作品には、「みれば」の作にみられる観念が消えて、読み手が素直に感動できる作となっているようだ。 ○父母の生まししわれの眼もて子らをしみれば子等はかなしき 「みれば」が使われている。父母が生んでくれた心の眼で見れば子供達はいとおしいなあということであろうか。人間が一人で生きていないこと。つながりの 中で慈しみながら生きていること。存在のかなしさが詠まれている。前田夕暮、四十二歳、重症の糖尿病に罹り入院、失明を警告されていた。四十二歳と言え ば、責任の重い年代、この一首の「みれば」なる言葉の重さは譬えようもない。とはいっても観念が認識が表立つ一首ではある。 「好日」2002年9月号所載
前田 夕暮 第七歌集『水源地帯』 人口に膾炙されているこの一首は、夕暮の自由律第一歌集『水源地帯』の巻頭、「空より展望する」の中に置かれており、読む者を体感的に作品世界へと誘う 迫力がある。体で感知した衝撃をストレートに作品に投入したい。夕暮が口語自由律に転換した大きな理由の一つであろう。伝統的文語定型に変換することに よって生じる体感的現実感の減少は多かれ少なかれ受容せざるを得ないものかも知れない。だが、そのことに拭いがたい時代感覚のずれや違和を感じた夕暮は、 昭和三年、「詩歌」復刊の頃から口語自由律の方向へと逡巡を伴いつつ歩み出し初めていたようである。 冒頭の一首は、昭和四年八月、斎藤茂吉、吉植庄亮、土岐善麿らと共に新聞社主催のコメット機初搭乗を経験、その折りの空中競詠の中の一首であり、社会的 に喝采を得た作品である。この社会的承認も後押しをしてか、夕暮の口語自由律への転換は、その後、迷うことなく実践されたように思える。 ところで、歌集『水源地帯』を読めば体感的現実感のストレートな表出を思わせる数々の作品に出会うが、中でも「體」「手」なる言葉を用いている作品が、 ほぼ三〇首あり、類似の言葉も入れると本歌集の一割にも達するであろうと思われる。 そこで『水源地帯』に於ける「體」と「手」の用いられ方を考察することで本歌集の世界を少し探ってみたい。 〇窓から出した手のひらー熱ッぽい都會上層の大気を感じた 〇機體からつき出した手のひらの下に、今横Mの市街がかくれた 一、二首目は前述の空中詠の中の作である。手のひらで感じた都会、その手触り感をストレートに言葉にし、歌にしている。二首目には、横浜を手中に納めた かの迫力があり読者を独自の世界に引き込む。だが一首目からは書かれている言葉以上の空想世界が余り広がらない。自由律の課題であろうか。 〇じっとりとした手さきを握りながら、この子が何か憐れまれてな らぬ 〇帰りしなに手を握ってくれた妻の手から、何か新しい妻を感じる 〇自分の手と手とを固く握りしめて、はっきりと自分の存在を知る、 冬! 〇俺はここにゐるここに飢えてゐると、ポケットの中で凍てついた 手がいふ 〇あけっぱなしの手は寂しくてならぬ。青空よ沁み込め 子を妻をそして自己を手の感触で確認している。それぞれ臨場感があり説得力のある作品群である。特に五、六首目の口語自由律だから表現しえたであろう生 な思いは、読み手の心に届く。感覚を獲得したときの夕暮作品の迫力は魅力的である。 〇私の體から細い銀線を惹き出してゐるのだ、此ルイマチスめ 〇私の體の中からひき出された銀線のはしが風の中の樹に絡みつか うとする 〇暗い、暗い、とわめいている體を、明るい日の中に持ち出してや る 〇私の體のなかで啼くものがある。鶇だ、外は夜あけだ 〇疲れた體から何か引出されるものがある、曇天の牛の聲 體を容器として捉えている夕暮独自の作品群と言えよう。ルイマチスを、暗さを、思想を入れる器として体を捉えている。三、四、五首目に、體に入れるべき ものを模索している夕暮の止むことのない挑戦を垣間見る思いがする。 「好日」2003年9月号所載
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| 前田夕暮 第
八歌集『青樫は歌ふ』 ○どの室もみな、蛋白質の明るい翳をもって、空白の位置を占める 昭和十一年作。「策溝」の中の一首。この歌には<七月二十五日、竣工近い新議事堂を観る>という詞書がある。つまり竣工前の国会議事堂を観 ての歌ということであるが、一読で理解出来るとは言い難い。先ず「蛋白質」とは何の喩であろうか。蛋白石ならばオパールつまり真珠のような光沢をもつ半透 明の鉱物であるが蛋白石でなく蛋白質であることにこの歌の意図があるように思えてならない。 蛋白質とは、大辞林に依ると「生物体を構成する主要な高分子物質。ー中略ー細胞の主成分であり、生命現象に深いかかわりをもっている。後略」とあり、い わいる生命現象の中核をなすものと考えて良いようだ。ということで、この歌の蛋白質なる喩の意図するものは、議事堂の沢山の部屋が国民の生命を預かってい る場所と捉えてのことと考えて差し支えないであろう。国民の生命に関わるべき機能を有するどの室もが、ということであろうか。 更に、それらの室が「明るい翳」を持つとはどういうことであろうか。国会議事堂は十七年の歳月をかけて、昭和十一年に完成する。建物には三万トン近くの 花崗岩や大理石が使われたという。まさに白亜の殿堂である。竣工直前、未使用の各部屋は光り輝いて見えたに違いない。しかしそこにインテリである夕暮はあ る種の翳を感じたのでなかろうか。十一年と言えば、二.二六事件のあった年であり、様々な社会不安が見え隠れしていた時代である。白亜の殿堂、議事堂に明 るさのみを見ることなど出来なかった筈である。「明るい翳」なる言葉を成り立たせた所以であろう。 最後に「空白の位置を占める」であるが、この建造物つまり議事堂が建つまでは、何もない空白の空間であったものが、建った故に、国民の生命に関わる機能 を持つの沢山の室が、〈空白の空間に〉位置を占めて仕舞ったということであろうか。 と言ったことを踏まえ、改めてこの一首を通釈すれば、「議事堂の中には沢山の部屋がある、国民の命を司る大切な機能を担う部屋々はみな、美しく明るいけ れど、現状の社会不安を取り除く力を発揮できるのであろうか。長い歳月をかけて堂々とこの場所に位置を占めた議事堂であり、議事堂の中の様々な部屋部屋で あるが・・・」と言うことになろうか。 この歌の後には次のような歌が並んでいる。 ○皇族室に通じる階段の美しいリズムが、あとからあとから曳き出 される ○みんな押し黙って、蘚苔の感触を愉しみ、華麗な錯覚の光を踏ん だ(絨氈) ○菊科植物の赤い花が笑ってゐるだけで、この貴賓室には照明がな い(絨氈) ○現存價値否定の意識の激しさに窓をひらいて、炎天鋪道の光をみ た ○空、鋪道、街路樹、七月の激しい外光、旗旗赤いナチスの旗・・ 斯くの如く文頭の一首に比べると、より主題が露わとなっている。因みに「策溝」の冒頭の一首は、二.二六事件の関係者である人の処刑を詠んだと思われる 次の歌である。 ○×刑執行のゲラ刷りを讀んだあとで、青樫の幹の策溝を掌に感じ てゐた 時代の不安から逃れられない昭和十一年であったようである。 ○自然がずんずん體のなかを通過するー山、山、山 と前歌集でストレートに感動を自由律に載せ得た夕暮は既にここにはいない。 「好日」2004年7月号所載
前田夕暮 第九歌集 『烈風』 「夜中の菜の花」昭和十三年作 傾向的に夕暮は自己の肉体を即物的に捉えようとする人のように思えるのだが、この一首はまさにそれであろう。人が物を食べる、つまり飲食とは食物が肉体 という管を通過することであり、生きるとは肉体に食物を通過させ続けることであるという認識である。われわれは生きている限り飲食をする。この事実に対し ては誰が何と言おうと反論の余地はない。食べるという事柄だけから人間を眺めたら、ヒトは生まれてから死ぬまで休みなくひたすらに体内に食物を注入しつづ けている存在なのである。 とは言え、人間の存在をその様に捉える人は非常に少ないだろう。人が存在としての人間を考えるとき、飲食という側面は大抵の場合二の次、三の次の事柄な のである。 哲学的に或いは社会的にどれ程の意義を抱いて存在している積もりであろうとも、生きている限りその肉体は様々な食物を絶えず通過させなければならないの だ。冒頭の一首はそれを有無を言わせず、飾りをつけずに投げ出している。余程の自信か勇気がなければ歌にはならない素材のはずだが何故か自然に身体から零 れたような感じに詠まれている。そしてこの手荒さが読み手を唸らせる由縁であり、冒頭の歌の場合を言えば、多分「るいるいたる」なるフレーズが背負ってい る時間、量などなどに、抜き差しならない人間の存在状況を読まされるからだろう。 ○夏草のみどりふかいなかに投げ出された私の足の性能に就いてー ○夕づいた草の上に投げ出された足の茫漠たる表情をみた
「草の上」昭和十四年作
○田芹つめば小指つめたい、ふいと人間の寂しさにうたれる
「烈風の虹」昭和一五年作
自己の肉体を眺める視線が独特の三首である。一首目の「足の性能」なる即物的視点に驚かされるが「について」となると、更に突き放した見方である。草の
上に転がっている自己の足をまるで商品を見る目で眺めているといった風景である。見ている本人(精神)と見られている本人の足(肉体)の間に相当の距離を
感じる。二首目は突き放した肉体の中に肉体自身が持つ精神を見ているということか。足が「茫漠たる」つまりはっきりしない表情を持つとはどういうことか。
足に一個の人格を認めていると言うことであろう。と言った具合に夕暮は自己を幾つにも分割して認識出来る、若しくは認識しようとする歌人のように思える。
三首目は、芹を摘む小指がふと田芹の冷たさを認識する、つまり夕暮本人が小指を通して芹の冷たさを認識する。土と植物と肉体と精神と一つに繋がったのかも
知れない。人間存在の寂しさを精神も肉体も含めた全身で受け止めた一瞬だったのかもしれない。夕暮は『烈風』の巻末小記に『烈風』こそは自己の口語自由律短歌の頂点であり終点であると書き、自由律との別れを宣言している。又、自由律に関わった十 余年の間の表現方法の変化の一つとして自由律より内在律への進展をあげている。内在律は主観的律動を重んじ、主観的律動を客観的律動の上に移して口語的発 想をしたのが私の短歌であると書く。難解な表現だが、私がこの文章に書いた自己を認識する時の夕暮特有の方法つまり精神と肉体の捉え方に関係している気が する。かくの如き夕暮の本質的な傾向が時代背景や夕暮自身の年齢(自由律短歌に入った)等々と複雑に絡まり合って自由律という困難な方法に挑ませたのでは なかろうか。自由律を始めたのが四七歳、定型短歌に戻ったのが六一歳。自身の自由律短歌の未完を認めつつ自由律に関わり苦闘した事こそが力となったと書 く 。 「好日」2005年7月号所載
前田夕暮 第十歌集
『冨士を歌ふ』
○かかる冨士をわがみるものか尨大なる面積をもちて近づききたる ○刻一刻立體的の容積のわれにちかづく壓力おぼゆ
前田夕暮歌集を今まで何冊か読み込んできて感じてきたことだが、夕暮はいわゆる理数系の言葉を好んで使う人のようである。この第十歌集『冨士を歌ふ』に 至って、それが一層顕著となっていることを確認した。掲出歌は第一部「初秋展望」十首中から抄出の二首であるが、それぞれ圧倒的な冨士の存在感が詠まれて いて迫力のある作品である。 一首目の迫力の元は「尨大なる面積」なる言葉であるが、富士山を面積なる感覚で捉えることに夕暮独自の視点と存在感を思わせる。広辞苑によると面積とは 「一定の面の広さ。閉曲面で囲まれた平面・局面などの広さを表す数値」とあり、一般的に、風景である山の存在の感じ方に用いるには馴染まない言葉と言えよ う。ところが抄出歌のように詠まれると冨士山が自分の方にぐんぐんと迫ってくる感じで押しつぶされるような心地になる。感傷的な或いは叙情的な比喩を使わ ずに、経済的数学的でありつつとても日常的な言葉で、つまり短歌表現としては手つかずの言葉で感動の質を追求した故に生まれた迫力であろう。 二首目は、更に圧倒的である。一首目は面積という平面での捉え方であったがこの歌は容積という三次元で迫ってくる。更にまた、刻一刻という時間的な描写 が加わることで眼前の冨士が巨大な生き物となり、ふと押しつぶされる感に陥る。生々しい臨場感である。 ○五六十度の角度もて西に傾きし山山をみつつ吾いまだ老いず ○一五分の一北なだれ道くだり行けば水上偵察機浮ぶこの山蔭に (串本港) この二首は「海蝕台地」中の作品で「昭和一七年南紀熊野海蝕台地を廻り尾鷲より海路木の本に至る」なる詞書きがあり、関西への一人旅の折りに詠まれた作 品である。 一首目は「海路」なる小題中の作。。五六十度という具体的な数字が山々の存在感を絶対的にし、更に五十度であろうか六十度であろうかと目で測っている夕 暮の心の景色をのぞかせる。この時、夕暮は六十歳、老いを自覚する年齢にさしかかっていた。この一首の結句「吾いまだ老いず」なる言葉は老いを自覚した故 に生まれた言葉であろうが、「五六十度の角度」なる具体的数字を使うことで眼前の山々を把握し力づくで引き寄せている。そんな自己の力を確信する故に生ま れた「いまだ老いず」でなかろうか。 二首目は「潮の岬」なる小題中の作で、一首目とは逆に陸から海を臨んでの作である。海岸近くの山沿いの小道を散策中、山蔭の入江にひっそり浮かんでいる 水上偵察機を発見したのであろう。水上偵察機とは海軍の軍用機で真珠湾攻撃の時に、直前に偵察したのも水上偵察機であるという。そんな軍事上の秘密めいた 軍機をひそかに発見した感慨は格別の筈である。この歌「一五分の一北なだれ道くだり行けば」なる具体的な方向の描写が一首の世界の真実味の裏付けとなっ て、読み手をぐいっと現場に引き込む。 前田夕暮は父の事業を引継ぎ奥秩父の山林事業つまり実業に専心した人である。数学的、物理的、表現の多用はそのあたりに由縁がありそうな気がする。更に 考察したいところである。 「好日」2006年7月号所載
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| 前田夕暮 第十一歌集
『耕土』 『耕土』は敗戦を迎える時の夕暮の暮らしが読まれており、背後には歴史の証人的側面がある。昭和二十年四月末から妻と共に奥秩父の入川谷に疎開するもそ の四ヶ月後に敗戦を迎える。夕暮が疎開地となした入川谷は父より引き継いだ山林事業の合資会社「関東木材」の最終的な拠点となった場所でもある。巻末小記 によるとここは第二のふるさとのような親しさを感じる場所であり、かねてからの念願である帰農を実践し晴天開墾の喜びを得ることが出来たと書いている。 とは言っても、開墾の疎開暮らしは並大抵ではなかったようである。『耕土』には疎開地での厳しさが様々に描写されているがその作品の多くに夕暮らしい一 途で前向きな視線が感じられ、それが却ってある種の痛ましさを呼ぶ。 ○自がくらふものはみづから作らめと妻にもいひて土うちにけり ○わが手より光りて土に散る種子のおのづからなる位置のよろしも ○小石まじりの重粘土畑に鍬入れて畦つくらむと汗あえにけり ○悪條件克服なしつつ耕しぬ旱荒地の空朝朝うるはし ○トロ道に蹲りつつ馬糞拾ふわれをみいでてわが驚かず ○瓜作り南瓜作ると忝な今日も馬糞を拾はせもらふ ○馬がくらふ薊を吾もをしにけりかて飯にしてをせばうましも ○山薊のかて飯うましふうふうと吹きさましつつ妻として食す 都会人であり資本家層の夕暮にとって疎開地での開墾は生やさしいものでなかったはずである。抄出の一連、どの歌も歌われている事柄は半端ではない。夕暮 は当時六十三歳、その後重くなる糖尿病の兆しもあったかも知れない。けれども、これらに潜む無邪気な明るさは何だろう。青年時代は父との葛藤などにより精 神的に行き詰まって自殺を図ったとも言われている。恐らく本質的には繊細な精神の持ち主であったろうと推量する。逆説的に考えて、そんな夕暮だからこそ、 どのような状況を詠んでも何処かに透明な明るさを置く作品を生みだすのかも知れない。そしてこれも夕暮文学のひとつの特質ではなかろうかと感じる。 『耕土』には、敗戦直後に詠まれた二十首の作がある。夕暮とほぼ同年齢の斉藤茂吉の敗戦直後の作品と並べて夕暮の特質を感じてみたい。(夕暮も茂吉も疎 開地にいて敗戦を迎え、二人ともその長男は外地に出征中である。) 前田夕暮『耕土』 「戦ひは敗れたり」から ○新しく生きむと思ふ吾さへや天ざかる涯におほき日をみつ ○悲しみはわがものならず遠天の赤き光に照らされにけり ○わがひとり嘆かへばとてどのやうになるべきにあらず秋草にほふ ○山川に早瀬の音は土づたひただにひびかふわがうつそみに 斉藤茂吉『小園』 「金瓶村小吟」「丘の上」から ○このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね ○沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ ○松かぜのつたふる音を聞きしかどその源はいづこなるべき 背後をみせずに懸命に前を向こうと詠む夕暮、背後を思えと迫る茂吉、ともにひたすらである 「好日」2007年7月 号所載 前田夕暮 第十三歌集『夕暮遺歌集』 前田夕暮は昭和二十六年四月、六十四年のその生涯を全うする。そして同年九月、子息、透によってこの『夕暮遺歌集』が編まれた。戦後の昭和二 十一年から没年までの作品約二千首よりセレクトした四百七十九首を収録した夕暮の第十一歌集である。 昭和二十一年作より ・空を見て歩める人はまれまれなり多くは地を見て歩みけり ・急ぐこと知らざるにあらず山峡の生活は急ぐに及ばざるなり ・種播きて播きたるままの焼畑を谷の底ひよりただに見戍るのみ ・わがうちにくづるるものの響きあり土崩のくらき響きよりあはれ ・どこかに物の錆びゐるにほひがしてつひに閑寂たる日となりはてつ ・さみしければおのづからまろびいねにけりさ筵の上錆びし鋏あり 前歌集『耕土』に続く、疎開地、奥秩父入川谷での作品群である。敗戦から半年は経過しているだろう。この年の六月にはチモールから子息、透が復員してい る。前歌集『耕土』に於て「悲しみはわがものならず遠天の赤き光に照らされにけり」「わがひとり嘆かへばとてどのやうになるべきにあらず秋草にほふ」と敗 戦のショックを激しく吐露した夕暮ではなく、そこから少し抜けて静かに自己を巡りを見回す人の姿がほのかに見えてくる作品群である。一〜三首目、山峡を耕 し、種を蒔き、育てるという作業自体に焦点を向けるのではなく、そのように暮らす事、或いは暮らす人に視線を当てていおり疎開地への慣れと更なる短歌活動 への兆しを感じる。 二首目は、若き日の夕暮が自然主義歌人として名を挙げた第一歌集『収穫』所載の代表歌「魂よいづくへ行くや見のこししうら若き日の夢に別れて」(明治 43)に通じる作品世界であろうか。 そして「錆び」なる語を喩として用いていることで成り立っている五・六首目の作品は身の置きどころの不安定さが絵画的、象徴的に表出されて夕暮短歌の特 質を立ち上がらせている。 自然主義短歌の騎手として若山牧水と共に名を馳せた夕暮であったが、ゴッホ等の西洋印象画の影響を受けた色彩豊かな印象派風短歌、更には口語自由律短 歌、そして定型復帰と常に試行錯誤の方法を試み続けた歌人であった。 昭和二十二年作品「渓谷の月」より ・苛烈なるわが性格の凪ぎにつつ内こもらふとほとほとに疲る ・わがそばに吾あり凝視めつつ凝視めつつ今日も夜に及べり とは言え、常に夕暮短歌の底流には存在の本質を問うという自然主義短歌の精神が流れていたような気がする。 夕暮が奥秩父入川谷に疎開し開墾の暮らしに明け暮れていた頃、土屋文明もまた東京を離れて疎開地、群馬県吾妻郡川戸で畑を耕しつつ敗戦を向かえる。「こ の母を母として来るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして」土屋文明『少安集』夕暮より七歳若い文明は、少年時代に自然主義の洗礼を身に受けた。疎 開先、川戸の生活、戦後の心を『小安集』に次の様に詠む。 ・にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ ・時代ことなる父と子なれば枯山に腰下ろし向ふ一つ山脈に ・同じものを食いながら彼はのんきにて我は息づき山の石踏む 疎開なる似た境遇にありながら、文明の歌には何処か客観化する目があり悲壮感が少ない。対照的に夕暮は鋭く自己を見据え自己を追いつめる。この真摯な特 質にも夕暮短歌のひとつの根拠を感じる。 「好日」2008年7月
号所載
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