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斎藤
茂吉を読む (その1) 『赤光』〜『連山』 『石
泉〜『つきかげ』 は (その2)
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(その1) 赤 光 あ らたま つ ゆじも 遠遊 遍歴 ともしび たかはら 連山 (その2) 石泉 白桃 暁紅 寒雲 のぼり路 霜 小園 白き山 つきかげ |
仲間数人との「斎藤茂吉の
歌集」を読んでいる。一首の歌の感想であっても受け取り方は様々。出来上がった歌の料理人は
読み手、どのように読むべきかに答えはないようだ。
茂吉の歌は奥行きが深くて、読み手を時に意外な方向へとひっぱって行って、生きるものの抱いて いる深い淵を覗かせる。読むほどに一筋縄でゆかない「読みの魅力」にはまってゆくように思え る。 数人で同じ歌を批評するということで、読み手の個性の違いが、茂吉の泥臭い人間性を立ち上げて、う〜んと唸らさせることもしばしば・・・。重たい歌人である。 −−−この勉強会のために書 いた私の小文を記録としてここ纏めてみた−−− 著作権は本土美紀江に帰属します。また、一切の転用 を禁止します。 |
| 『赤光』 明治38年 〜大正2年 24才〜32才 →食べ物の歌 この頁のTOPへ → 一首鑑賞 →千里支社 茂吉の研究発表 →茂吉の描いた 人間像 茂吉と「悲し」 |
『赤光』食べ物の歌について
『赤光』は茂吉の第一歌集で明治三八年(二四才)から大正二年(三二才)までの作が三度の改訂を経て七六〇首が収められている。 『赤光』には「食」に 関連した作が三二首あった。それを次の五項目に分類してみた。 @【草の実 果実の歌】一〇首 例「たらちねの母の遍にゐてくろぐろと熟める桑の実を食ひにけるかな」 身辺の慣れ親しんだ食物が殆どであり、この辺りの考察は大切なのかも知れない。 A【飯の歌】八首 例「よる更けてふと握飯くひたくなり握飯くひぬ寒がりにつつ」 どの歌をとっても茂吉の生命の根元を垣間見ることが出来、茂吉がリアルに迫ってくる。 B【その他の食】七首 卵、田螺、酒、味噌 C【ひもじい歌】三首 D【けだもの食】五首 改訂版(定本)となるときに捨てられた七二首の中に食の歌が何首あったろうか。興味のそそられるところである。 『赤光』の〈食〉関連の歌
【草の実 果実の歌】 たらちねの母の遍にゐてくろぐろと熟める桑の実を食ひにけるかな(明治三八年) 春闌けし山峡の湯にしづ籠りタラの芽食しつつひとを思はず(明治四二年) 隣室に人は死ねどもひたぶるに箒ぐさのみ實食ひたかりけり (明治四二年) 干柿を弟の子に呉れ居れば淡々と思ひいづることあり (明治四二年) ま夏日の日のかがやきに櫻実は熟みて黒しもわれは食みたり (明治四四年) ひとりなれば心安けし峪ゆきて黒き木の実も食ふべかりけり (大正元年) 狂じゃ一人蚊帳よりいでてまぼしげに覆盆子食べたしといひにけらずや (大正元年) 天伝ふ日は傾きてかくろへば栗煮る家にわれいそぐなり(大正元年) いとまなきわれ郊外にゆふぐれて栗飯食せば悲しこよなし(大正元年) ふるさとのわぎへの里にかへり来て白ふじの花ひでて食ひけり(大正元年) 【飯の歌】 飯の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口のおどろくところ(明治三九年) あなうま粥強飯を食すなべに細りし息の太りゆくかも(明治四二年) おのが身しいとほしければかほそ身をはれがりつつ飯食しにけり(明治四二年) 生くるもの我のみならず現し身の死にゆくを聞きつつ飯食しにけり(明治四二年) うつしみは死しぬ此のごと吾は生きて夕いひ食しに帰りなむいま(明治四四年) ひとり居て朝の飯食む我が命は短かからむと思ひて飯はむ(大正元年) 雪の上を行けるをみなは堅飯と赤子を背負ひうたひて行けり(大正元年) よる更けてふと握飯くひたくなり握飯くひぬ寒がりにつつ (大正元年) 【その他の食】 ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも(明治四二年) 気ちがひの面まもりてたまさかは田螺も食べてよるに寝ねたる(明治四三二年) 赤いろの蓮の浮けるとき田螺はのどみみごもりぬらし (明治四三二年) 味噌うづの田螺たうべて酒のめば我が喉佛うれしがり鳴る(明治四三二年) けふもまた雨かとひとりごちながら三州味噌をあぶりて食むも (大正元年) 浅草に来てうで卵買ひにけりひたさびしくてわが帰るなる (大正元年) 凱旋り来て今日のうたげに酒をのむ海のますらをに髯あらずけり(明治三九年) 【ひもじい歌】 よるさむく火を警むるひやうしぎの聞え来る頃はひもじかりけり(明治四四年) 常のごと心足らはぬ吾ながらひもじくなりて今かへるなり(明治四四年) ゆふされば青くたまりし墓みづに食血餓鬼は鳴きかゐるらむ(大正元年) 【けだもの食】 秋づけばはらみてあゆむけだものも酸のみづなれば舌触りかねつ(明治四四年) 乳のまぬ庭とりの子は自づから哀れなるかもよ物食みにけり(明治四四年) けだものは食べもの恋ひて啼き居たり何といふやさしさぞこれ (大正元年) 上野なる動物園にかささぎは肉食いゐたりくれなゐの肉 (大正元年) 『赤光』 めん鶏ら砂浴び居たりひっそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり 大正二年(三二歳) 大正の初めは茂吉の一生にとって公私ともにエポックとなった時代と言える。大正二年三月、青山脳病院失火。斎藤てる子、女子学習院卒業。五月、生母いく 没。七月、伊藤左千夫没。アララギが会員組織となる。十月『赤光』を刊行。また「死にたまふ母」「おひろ」などの連作が発表と同時に注目され、歌壇文壇で 大きな評価を得た。 本来の土俗的農民的な資質を精神の奥に閉じこめて生活者としてはブルジョワ的養家に添わなければならなかった三十二歳の青年はそんな精神の内的違和をエ ネルギーとして事に立たち向かったのであろう。この時代の茂吉が文学に注いだ時間と深さは凄まじいものであったらしい。仕事である医学をそっちのけにして 短歌に力を注いだようである。 この歌にしても、砂をあびているめん鶏たちは土俗の農民の象徴ともとれるような気もする。剃刀研人もそれにつれて様々に想像される。 (2005/9/21記) 『赤光』 蚕の部屋に放ちし螢あかねさす昼なりしかば首すぢあかし 明治39年(25歳) 何時、螢を蚕部屋に放ったのかは不明であるが多分前夜であろう。螢は光を放つ夜こそ存在感があり捕らえられもするが昼は目立たない虫である。茂吉はその 目立たない昼の螢に螢の実体を感じそれを描写したかったのだろう。螢の首すじと言えば唸らされるが、この歌には本歌がある。「昼見れば首筋あかき螢かな」 という芭蕉の句である。茂吉の歌の方が螢の命に迫っている感はあるが、芭蕉の言葉をなぞっている感は拭えない。 茂吉はこの前年、子規の『竹の里歌』を読んで本格的に作歌を志し、伊藤左千夫を訪ね、以後師事する。
この作は子規、左千夫の写実を様々に追究する課程で成された作だと思われる。『赤光』初版に置いては「蚕の室に放ちしほたるあかねさす晝なりければ首は赤
しも」となっており、本歌、芭蕉の句も添えられている。八年後「草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ」『あらたま』に生まれ変わる螢
なのだろう。 (2007/12/13記)
うけもちの狂人も幾たりか死にゆきて折をりあはれを感ずるかな(大正元年9月・31才) 『赤光』 精神科医となって二年、巣鴨病院に勤務の頃の作。狂人守と題して詠まれている。幾たりかとあればこの病院に勤務して半年ほどの間に亡くなった担当患者の 様々を思い出しているようだ。『作歌四十年』で掲出歌について「・・精神病医は私の本職だから、精神病者を観るに普通文人のごとく興味本位ではない。詩や 小説に出てくるような非現実的なものではない。・・」と書きこの歌は現実的な歌であると述べている。 茂吉は15歳で精神医になるべく斎藤紀一の養子となる。多分本人の決めた進路でははなかろう。が、先入主なしに始めた精神医学探求は、この病者への科学 的現実的認識へと繋がったかもしれない。また「柿の村人へ」つまり赤彦へと題して次の様に詠む。 ○かの岡に瘋癲院のたちたるは邪宗来より悲しかるらむ(同11月)後年、茂吉はこの歌そして冒頭歌、狂人守が人にどの様に読まれたを随筆『痴人の痴語』で 危惧している。 (2008/1/30記) @かがまりて見つつかなしもしみじみと水湧(わ) き居(を)れば砂うごきたり 明治42年(28歳) Aせまりくる現実(うつつ)は悲ししまらくも漂(ただよ)ふご ときねむりにゆかむ 明治44年(30歳) A愁(うれ)ひつつ去(い)にし子ゆゑに藤の花揺(ゆ)る光さへ 悲しきものを 大正2年(32歳) @すり下(おろ)す山葵(わさび)おろしの滲(し)み出でて垂(た)る青(あを)み づのかなしかりけり 大正2年(32歳) 『赤光』には茂吉の24歳か ら32歳までの作品が収められている。傾倒し尊敬していた子規に倣い物事の写生に重点をおいた初期の作品から始まって、心の吐露を深く加味する写生へと次 第に自己の作風を獲得してゆく過程をみることが出来る。それに連れて「かなし」「悲し」といった生の感情をあらわす言葉が次第に増えてゆく。掲出歌の@は 「かなし」とひらがな表記でありAは「悲し」と漢字で表記されている。「かなし」には【悲し/哀しい/愛しい】などの広い意味が思われるが「悲し」は 心が痛み泣けてくる思いのみを立たせる言葉である。「おひろ」に「ひつたりと抱きて悲しひとならぬ瘋癲学(ふうてんがく)の書(ふみ)のかなしも」などと 詠んだ作もある。 (2010/3/25記) |
| 『あ
らたま』 大正2年〜 大正6年 32才〜36才 →食べ物の歌 この頁のTOPへ →茂吉の一首と 塚本邦雄の一首 2006年12月 千里歌会のためのレジメ→ →茂吉の 描いた人間像 茂吉と「さびし」 |
『あらたま』―食べ物のうた― きのこ汁くひつつおもふ祖母の乳房にすがりて我はねむりけむ 斎藤茂吉 祖母ひでが没した折りの挽歌四十八首中のの一首である。『赤光』に於いて母の死を生々しく悲しんだ茂吉は既にここにはない。「きのこ」は故郷に繋がる食べ 物なのだろう。祖母ときのこ狩りをした幼き日をを蘇らせる食べ物かもしれない。そんな「きのこ汁」を口にしたとき今は亡き祖母を思い、祖母に繋がる自己の 命を思うということだろう。詠まれているのは亡くなった祖母の「存在した」こと、そしてそれに繋がる自己の「存在している」ことであり、それらを心の目で 見届けようとしている姿勢が窺われる。「食う」なる生々しい行為で詠み起こされた故の臨場感が死をも生をも切なく浮き立たせている。 『赤光』の悲しみを越えた茂吉が実相観入の歌境を獲得するに至る山場となった祖母の挽歌はかくの如くあくまでも静かに現実に迫るべく詠まれている。『あら たま』所載の食の歌はこの一首のみである。 『あらたま』 の一首が呼ぶ歌 ひたぶるに河豚はふくれて水のうへありのままなる命死にゐる 『あらたま』 大正3(33歳) 水面に死んで浮かんでいる河豚が写生されている。河豚は示威行動として身体を膨らませるが、この河豚は膨れた状態で水面に死んでいたのであろう。身体が 膨らんでいる事は他を脅す意志の現れ。「ひたぶる」なる言葉の由縁である。「ありのままなる」つまり茂吉は死んでいる姿を見て、ひたすらに生きた「命」を 写生したのであろう。 ・ダリを父として大雪の魚市の箱に睡魔のごとき海鼠ら 塚本邦雄 『水銀傳説』 魚市の箱の中の海鼠から発想を展開させた作であろうが、茂吉の河豚が下敷きにある気がしてならない。トロ箱の中の海鼠から容易にダリの柔らかい時間へと想 像を展開し、ぐにゃぐにゃの海鼠をダリの子、つまりダリの遺伝子を継ぐ軟らかな時計へと発展させたのであろう。更に睡魔のごときと詠むことでその時間を死 なせなかった。塚本は茂吉のアララギ的写実を踏まえることで、超現実主義へと想像を発展させたのではなかろうか。 (2005/10/27記) ゆふされば大根の葉に降る時雨いたく寂しく降りにけるかも 『あらたま』 茂吉 大正3(33歳) 直訳すれば「夕方にると大根の葉に降る時雨は本当に寂しく降ることよなぁ!」ということで何処が面白いのだろうとも言える内容である。これは私の場合で あるが、この一首韻律が良いからだろうと思うのだが、いつの間にか心に刻まれていたらしく、折りに触れて浮かんでくるのである。そして、それに連鎖してか 或いは続いてか心の動きは定かではないのだが時雨の降る山里のモノクロの風景を思い、地に低く雨に濡れている大根の葉の静かな緑を鮮明に感じる。 この歌について茂吉は、現実の看方が一転化出来た気がすると述べており、赤光時代の露わな主観を奥に閉じこめ得たことを喜び、更に、いたく寂しくの「寂 しく」について平安、鎌倉期の「寂しさ」とは違ったものであると述べている。つまり主観的、感情的な「寂し」ではなく「風景」を写生する上の客観的感覚的 使われ方の「寂し」なのだということであろう。感情を削ぎ感覚だけが捉えたモノクロの界のささやかな緑は生きている事物の実体或いは現実の象徴なのだろ う。 (2006/10記)
狂人に親しみてより幾年か人見んは憂き夏さりにけり 七月作 『あらたま』 大正3 (34歳) 「漆の木」と題する七首中の一首で〈たらたらと漆の木より漆垂りものいふは憂き夏さりにけり〉と思いを重ねる様に置かれる。 茂吉は明治43年、東京帝国 大学を卒業と同時に東京府巣鴨病院に勤務を命ぜら、大正六年一月迄勤める。掲出歌は勤務にも馴れ宿直等もそれなりにこなしていた頃の作である。又この前年 には輝子と結婚し婿養子としての立場も正式に整う。が、15歳で養子として斎藤家に入り、養父、紀一の立てた筋書通りに精神科医となり、結婚もするが、斎 藤家での圧倒的な人間関係も含めて鬱々と思うこと無きにしもあらずであったわけで、詠まれている「人見んは憂き」「ものいふは憂き」はその辺りをひっくる めての茂吉の心の流露であるかと思われる。そして「人見ん」の「人」は狂人と詠みつつ狂人に限定しないなべての人であろうし、「ものいふは憂き」の心は、 少年茂吉をかぶれさせ夏中苦しめた、あの漆の汁ほどにしつこい思いなのだろう。 (2008/3/26記)
いのちをはりて眼(まなこ)をとぢし祖母(おほはは)の足(あし)にかすかなる皸(ひ び)のさびしさ 『あらたま』大正4年・34歳 冬の山「祖母」その一と題して、祖母の死を詠んだ歌が「ものの行(ゆき)とどまらめやも山峡(やまかひ)の杉のたいぼくの寒(さむ)さのひびき」といっ た冬の山を詠んだ静かな写生詠と並んで悲しさを突出させることなく静かに置かれている。 「いのちをはりて眼(まなこ)をとぢし」は全く見たままの風景である。医師ならば人の死は日常の出来事であろう。生きとし生けるものが命を全うすること は当然の現象なのである。が、見たままを写生しながら静かにあたたかいのは何故だろうか。ありのままなる冬山の写生詠と同列に置かれているからかもしれな い。下句に「足の皸」と祖母の生きた証を詠みひっそりと主観語「さびしさ」を使っている。祖母の死を嘆くという生々しいさびしさではなく、祖母の足の皸が 見せている命のさびしさを言っているのだろう。
(2010/4/22記)
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| 『つ
ゆじも』 大正7年〜 大正10年 37才〜40才 →食べ物の歌 → 一首鑑賞 →茂吉の虫の歌、 『つゆじも』と『つきかげ』か ら 茂吉と父母 茂吉と「寂しき」 |
『つゆじも』ー食べ物のうたー あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして (大正十年作) 赴任地長崎から一度故郷に帰った茂吉は、十月からの洋行に備えて不安のある体調快復のため八月から九月、長野県富士見にて静養をする。この歌はそんな富 士見静養中に中央公論に発表した「山水人間虫魚」五十一首中の一首である。 あららぎは一位樫、櫟の異称。秋、赤い小さな実がなる。実は甘いが種には毒がある。 この歌、先ず、櫟の木の赤い実が読者を引きつける。さり気ない写実で読者を風景に引っ張り込むのである。ここからが問題。一粒を口に含む。故郷で両親ら と日常行っていた行為かもしれない。上手に食べないと甘いが毒のある果実である。ここで読者は風景から人間茂吉の存在に感づく。洋行への肉体的不安。生死 の不安。様々な不安を抱えた生身の茂吉なる存在に気づく。結句の「信濃路にして」の「して」が静養中の我が身だからこそとそれを徹底的に印象づけている。 孤独なるもののごとくに目の前の日に照らされし砂に蠅居り 〈孤独なるもののごとく〉は如何にも感傷的表現であるが赴任先での療養という前途の暗い心境が選ばせた言葉であろう。蠅に掛かっているが、当然茂吉自身 の心の表出であろう。〈目の前の〉は砂に掛かるのであろうが、〈目の前の日に〉と日が目の前にあるような錯覚を呼ぶ。これは意図的なのであろうか。 「ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな」はこの一年後の留学前に詠まれた叙景歌で遠くを捉えて近くへと視線を引き込んでいる。茂 吉の叙景歌の一つの手法であろうと思う。表題の「孤独なる・・」もこの手法に近い一首のようで「目の前」は手法的にも又当時の心理的状況からも重要な言葉 なのであろう。茂吉は〈作歌四十年〉に「微かなる虫の類」は療養中の最も親しい対象であったと書いているが、この〈蠅〉も然りであろう。小さな蠅に自己を 投影し日に照らされる事で癒えたい願望を感傷的に表白している様に思える。 わが家の石垣に生ふる虎耳草その葉かげより蚊は出でにけり 『つゆじも』 大7年(37歳) 虎耳草は日当たりの良くない場所を好み、晩春小さな花をつける。自宅の暗い石垣に自生している虎耳草、その葉陰からゆらりと出てきた蚊。「出でにけり」 が動きの鈍さを表す。そして「蚊は出でにけり」の「は」がこの歌の要。ちっぽけなとるに足らない弱々しい蚊だが、こう詠まれると大舞台に登場する感であ り、次第に『つゆじも』の時代の茂吉そのものに見えてくる。 おもひいづることあり夏のみじか夜に金瓶の蚤大石田の蚤 『つきかげ』昭23年(67歳) 蚤渡来のことなどしばし空想し狭き畳に居たる安心 同 疎開先大石田から帰京後の作。茂吉は生涯を通じて蚤、蚊、蠅その他の小動物を折りに触れて詠んでいる。取るに足りないかの小動物を正面から詠む時、衣を脱 ぎ捨てた素裸の茂吉が見えているような気がする。 蚤はこの時代、人と同居している生き物であった。一首目は蚤を介して戻ってくる疎開地のあれこれ、二首目は外地のあれこれであろう。小動物を介して詠ま れた作品は主人公を少し喜劇的にし読者は軽みをやがて重みを味わう。 (2006/1/18記) あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして『つゆじも』大正10年茂吉40歳 『赤光』で「死に近き母が額を撫りつつ涙ながれて居たりけるかな」(死にたまふ母)と全身で生母の死を涙と共に詠み上げた茂吉であるが『あら たま』に於いては祖母の死を「いのちをわりて眼をとぢし祖母の足にかすかなる皸のさびしさ」と静かに死に行く命の姿、更には祖母を失う茂吉自身の寂しさの 心を見届けようする。若々しく生々しい『赤光』の世界から深く沈潜させた『あらたま』の世界への移行なのであろう。 その後の歌集である『つゆじも』の中心は長崎単身赴任時代の作品である。この赴任中に茂吉は流行性感冒後の喀血、転地療養などを経験する。即ち自己、他 者を含めて命を静かに再確認した時代であったかと思われる。表題の一首は信濃の山中で見つけたあららぎの実に父母が重なったのであろうか。食むという命を 繋ぐ動作の向こうに静かでありつつ確かな父母の姿がある。くれなゐが過去の命の存在感の力となっている。 (2008/5/7記) あまつ日は松の木原(きはら)のひまもりてつひに寂(さび)しき蘚苔(こけ)を照せり 『つゆじも』大正10年茂吉40歳 茂吉は三年余の長崎赴任を終え大正十年三月に帰京、半年後の欧州留学に備えて長野県富士見にて体調回復のための静養をする。掲出歌はその静養先での作であ る。 盛夏、陽光が燦々と松林を照りつけている。その陽光は茂った松の枝枝を照らし枝枝の隙間を零れれて漏れて遂には地面の蘚苔(こけ)に達して照らしていると その情景を写生している。言うまでもなく太陽は命の源泉であるから地表の蘚苔(こけ)が命を獲得する姿を写生しているものと思われる。そして蘚苔(こけ) に託しているのは恐らく自己の命を含む万物の命なのだろう。故にこの歌に使われている〈寂しき〉は寂しき蘚苔と蘚苔(こけ)の説明としてあるのではなく蘚 苔(こけ)を初めとする命に注ぐ光の有り様の寂しさに言及しているものと思われる。蘚苔(こけ)という目立たない命に及ぶ陽光の照らし方に対する感覚的把 握のなした言葉〈寂しき〉なのだと感じた。 2010/5/19記 |
| 『遠遊』 大正十一年〜 大正十二年 41才〜42才 →食べ物の歌 こ の頁のTOPへ →斎藤茂吉 と 葛原妙子 同じ場所を詠んで 茂吉とレナウ |
『遠遊』ー食べ物のうたー 黒貝のむき身の上にしたたれる檸檬の汁は古詩にか似たる 大正十二年 茂吉41才 四月、学位論文「麻痺性痴呆者の脳図」を印刷所に送る。その後ベニス、ローマ、ナポリ等々の旅に遊ぶ。この歌はは六月のナポリで詠まれた。『作歌四十 年』には「街頭属目の歌に過ぎぬがなかなかエキゾティックに出来ていて懐かしい」と述べられている。 檸檬は外国の香りの漂う柑橘。黒貝に檸檬の汁を滴らすは異国なればこその日常であろう。しかし彼は日本人、それも常に満身創痍の心を抱く茂吉であれば、 当然の事として「檸檬の酸を浴びた黒貝のむき身」は茂吉自身であろう。更にこの「古詩」から容易に連想されるのはニーチェである。 ニーチェは我が国の文壇に強烈な影響を与え続けた哲学者であるが、長い狂気のうちに生涯を終えたことでも知られている。その原因は深い思索故とも脳梅毒に よるものとも言われているが茂吉は思想の面からも医学的見地からもニーチェを良く理解する第一人者であったという。斯くしてこの一首、茂吉の言う「単なる 街頭属目の歌」でないことは明白である。 サン・ピエトロの円き柱にわが身寄せ壁画のごとき僧の列見つ 『遠遊』T12年・茂吉41才 ヴァチカンを抱けるローマたとふればおほいなる緑の母岩のごとく 『朱霊』S45 葛原妙子 同じ場所に立って詠まれていながらそれぞれの個性が際だつ二首である。 一首目、サンピエトロ大聖堂の円柱に身をもたれさせたのであろうか。「わが身寄せ」は「やってきたなあ」という感慨と共に聖堂を彩る壁画の世界に浸り きっている状態を表出している。折しも聖堂内を歩いて居る僧の列に目を止めるが、それさえも現実か絵の中の風景か定かではないと言う。茂吉は大聖堂内部の 景色を見る事から歌い出している。見ることでそこから時間を遡る。現実から目を離さない茂吉の詠み方である。 二首目、ローマと言う都市の中のヴァチカンという地図が前提にあって成り立っている。小さくとも計り知れない力と栄光を持つヴァチカン。それは母なる ローマが大切に抱いているからだと言う。緑がローマを生き物めいた母に変換する。目前の風景から意識の世界へワープする。妙子の歌である。 (2006/2/23記) 悲しみを歌いながらに気狂ひて果てしレナウの墓のべにたつ 『遠遊』大正12年 茂吉42歳 たどり来しレナウの墓の傍らにほほづき赤くなれる寂しさ 同 ドイツの詩人レナウ(1802〜50)はハンガリーに生まれ、ウイーンで医学を学ぶが祖父の遺産を得たため学業を放棄し、詩人として恋愛と放浪の人生を 送る。連作『葦の歌で』注目を集め、ドイツのバイロンと呼ばれたりする一方、憂鬱詩人とも呼ばれ、独特の厭世観を詩の中に歌い込み、遂に最後は発狂し精神 病院にてその生涯を閉じる。 日本の近代詩に様々な影響を与えたこの詩人の墓を茂吉はどうしても尋ねたかったのだろう。二首目の「たどり来し」がその心を伝える。一首目はレナウとい う詩人の姿がそのまま描かれていて言う言葉がないが、結句の「墓のべにたつ」にレナウと茂吉の姿がふと重なる。二首目の「ほほづき赤くなれる寂しさ」は幾 度か見た茂吉の手法のように思えるが、モノクロの精神世界にふと点る赤が切ない。精神医学者歌人、茂吉にとってレナウは格別の人であった気がす る。 (2008/6/26記) シルレルの死にゆきし部屋(へや)もわれは見つ寂(さび)しきものを今につたふる 『遠遊』大正12年 茂吉42歳
この一首の前に「静厳(せいげん)なる臨終(りんじゆう)なりしと伝(でん)しありて薬(くすり)のそばに珈琲茶碗(こうひいちやわん)ひとつ」「晩年 のゲエテの名刺(めいし)なども遺(のこ)しあり恋ひて見に来(こ)ん世の人のため」などとゲーテハウスを詠んだ作があり、ゲーテの生前の姿をなにがしか 窺える詠み方で表現している。茂吉も恐らく恋いて見に来たひとりであろう。 それに反してシラーを詠んだ掲出歌は如何にもそっけない。死にゆきし部屋もとゲーテのついでに見た感である。46歳で没したシラーであるが十歳年長の ゲーテとの関わりは濃密であり様々に影響を与え合ったと言う。 シラーは死と隣り合わせの生、生と隣り合わせの死を描いた文学者だと思えるが「死を怖れない者に何を怖れろというのだ!」などと死に関わる言葉も格言と して多く残っている。更に茂吉と同じく医学者でもあった。その点に於いての親近感はなかったのであろうか。とは言え掲出歌下句のそっけなさは何故なのだろ う。 (2010/6/24記) |
| 『遍
歴』 大正12年〜 大正13年 42才〜43才 →食べ物の歌 茂吉とヒットラー |
『遍歴』ー食べ物のうたー はるかなる国に居りつつ飯炊きて噛みあてし砂さびしくぞおもふ 『遍歴』 大正十三年、茂吉、四十二歳の作。詞書きによると「五月二日(金)夕ひとり日本飯くふ」とある。五月は三年余にわたる欧州留学中の最後の論文を完成させ た月であり、この年の十一月に帰国する。 大正十三年頃と言えば、あらゆる面で欧州は先進国。留学中の茂吉が先進的異文化から受ける衝撃は相当のものであったろう。この一首はそんな異文化を孤独 に経験しながら漸く当初の目的を達成しつつある頃に詠まれている。(飯)即ち米を味わうことは茂吉にとっては異文化の中で自己を取り戻すことに等しい行為 だったのかもしれない。そんな茂吉を(噛み当てた砂)は忽ち異郷という現実に呼び戻す。(さびしくぞおもふ)なる直接的感情表現の奥には相容れがたい異文 化間の障壁に対する苛立ちも込められているようだ。今、自分の居る場所を(はるかなる国に居り)と詠む茂吉であれば、何処にいても視点の根拠は常に日本に あったのだろう。 『遍歴』ー食べ物のうたー イタリアの米を炊(かし)ぎて一人食ふこのたそがれの塩(しほ)のいろはや 大正13年(42才) 『作歌四十年』「遍歴抄」には表題の歌はなく次の歌が載せられている。「日本飯をけふも食いたりおごりにはあらぬ倹約とこのごろおもふ」「飯の中の砂を 噛みたる時の間を留学生のわれは寂しむ」大正十三年の歌と記しているから、当時、類似の歌を幾首も作ったのであろう。留学生といっても茂吉は既に初老とも 言える四十二才、結果を出さねばならぬ立場の留学生活にゆとりはない。 表題の歌、「米を炊ぎて一人食ふ」がそれらをひっくるめて言い果せている。問題は「塩」。清め塩、盛り塩、地の塩等といろいろ背後の深い塩である が・・。恐らく常備の食卓塩ではなかろうか。塩の色にも場所によって微妙な差異があるかも知れぬ。ご飯を食べながらふと傍らを見ると、何処か違和のある食 卓塩が目に入ったのではなかろうか。 茂吉にとっては通過点に過ぎない筈のこの黄昏、ふと目に止まった塩の色。一期一会に通じる心が過ぎったのかも知れぬ。 行進の歌ごゑきこゆ H i t l e r の演説すでに果てたるころか 『遍歴』12 茂吉42歳 またたくまも定まらぬ金位ききながら兎の脳の切片染めつ (一ポンド一八ビルリオン) 同 留学して二年目、課題である実験の仕事も大詰めとなった頃、茂吉はヒットラーーがミュンヘンで起こしたヴァイマル共和国打倒のクーデター未遂事件、所謂 ミュンヘン一揆に遭遇する。第一次大戦後の政情不安に民衆の不満が募る中、力を拡大してゆくのが国家社会主義ドイツ労働者党即ちナチス党であり、その党首 ヒットラーは演説で聴衆を惹きつける天才であったと言われている。彼はミュンヘンの巨大ビアホール、ブロイなどで度々演説を行い聴衆を魅了してゆくが茂吉 もその中に居合わせたことがあったようである。 一首目、演説すでに果てたる頃か」がヒットラーの姿を窺わせ、演説から行進へと不気味なエネルギーに覆われてゆく街と自室でそんな街の様子を感じている 茂吉の姿とが二重写しに描写されている。ミュンヘン一揆の一週間前に詠まれている。 (2008/7/24記) |
| 『ともしび』 大正13年〜 昭和3年 43才〜46才 →食べ物の歌 この頁のトップへ 茂吉と土屋文明 |
『ともしび』ー食べ物のうたー とどこほるいのちは寂しこのゆふべ粥をすすりて汗いでにけり 『ともしび』 昭和2年(46才) 「とどこほる」とは、「物事が順調に進まない。停滞すること。」と言う意である。『ともしび』時代の茂吉の巡りは慌ただしい。つまり三年間の欧州留学の全 う、家を失火で失う、父を亡くすといった様々な出来事を、白毛等の具体で老いを自覚した一身で受け止めなければならない慌ただしさである。 若さとの決別を知らされる身体的老いの自覚は具体的であるが故に決定的である。が、さりとて死へ向かうわけにも行かぬ現実を生きている茂吉であったのだ ろう。「寂しも」という主観語を躊躇わず使っている。 その様な状況下に於いてさえ、肉体は「粥」という命を養うに最小限度の飲食にさえ反応して汗を出す。そこに命のもつ深い所からの根元的な叫びを感じたの かもしれない。 病院の再建等々の金銭的労苦を受け止めている苛立ちは詩的感性の抑圧を強いることにもなった筈である。精神的肉体的苛立ちがじんわりと伝わってくる歌で ある。 紀伊のくに大雲取の峰ごえに一足ごとにわが汗はおつ 大正14 茂吉44歳 雲取を越えて来ぬれば山蛭の口処あはれむ三人よりつつ 同 うれひつつ歩みつとむる人の後にわが祈事の小さかりけり 大正14 文明36歳 三年の留学を終え大正十四年一月に帰国した茂吉を待っていたのは全焼の青山脳病院の再建と金策、再建反対地元民との抗争交渉等々越えねばならぬ難題の連 続であり、『ともしび』は「うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり」といった苦渋が抒情的にほとばしり出た作品で始まる。斯く 苦難に充ちた帰国後の茂吉であったが、この年の五月以降幾つかの旅行をし意欲的に旅行詠をなしている。比叡山アララギ安居会に出席した後、茂吉は土屋文 明、武藤善友の三人で熊野路を旅し熊野の難所「大雲取」越えを成し遂げる。掲出歌はその折り作。文明もまた信州で不本意なままに教職を去りやむなく帰京と いった不安定な時期におり掲出歌三首目の背後にはそれらがある。 (2008/9/2記) |
| 『たかはら』 昭和4年〜 昭和5年 47才〜48才 →食べ物の歌 →斎藤茂吉 と 前田夕暮 同じ場所で詠んで |
『たかはら』ー食べ物のうたー 石亀の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け (昭5年) 近江番場蓮華寺に佐原隆応和尚を見舞った折りに詠まれた。茂吉は『作歌四十年』に於いて「この寺の裏手に池がある。・・そこの石亀が陸地にあがってきて卵 を生むと蛇がその卵を呑む事実を寺の石川隆道さんが話してくれた。亀は卵を呑まれるとも知らず心を安んじて池に帰ってゆくそうであった。・・私はこの話に ひどく感動していろいろと難儀して作ったがどうにか物になったようである。結句の『とこそ聞け』の調べにはどこかに梁塵秘抄あたりがにおっているか知ら ん。・・」と述べている。 一心に卵を生む石亀、それをひたすらに待つ蛇、その事実を一心に歌にする茂吉。三者の緊張が読みとれて気味の悪さに圧倒される。『とこそ聞け』なる一種 の逃げには、読み手の心情を察知している茂吉の人間臭が漂う。後年の「鼠らを毒殺せむとけふ一夜心楽しみわれは寝にけり」等に通じる鬱屈した消しがたい情 念を抱えている歌である。 ○くろき海の光をはなつ時のまの寂しきを 見つ天の中より 『たかはら』斎藤茂吉(四七才) ○直ぐ目のした山嶽よりせまりくるChaosきび しきさびしさ ○赤き小さき五重塔を眼下に見てこころ宗教 荘厳の形式に及ぶ 〇自然がずんずん體のなかを通過するー山、 山、山 『水源地帯』前田夕暮(四七歳) 〇窓から出した手のひらー熱ッぽい都會上層 の大気を感じた 〇機體からつき出した手のひらの下に、今横 Mの市街がかくれた 「土岐善麿、前田夕暮、吉植庄亮の三君と私とが朝日機に乗せてもらった時の歌である。歌人で飛行機吟を作るのはめずらしくもあり世界が新しいだけ、見方に も表現にも困難があり骨が折れた」と茂吉は作家四十年に書いている。前三首が茂吉の作であり、後の三首が夕暮の作である。同じ経験を詠む同年齢の二人の作 家の特質が歴然である。茂吉は風景を心で感じ詠みカオスを探る、一方、夕暮はその体感的現実感を真っ直ぐに詠む。 (2006/5/29記) となり間に常臥しいます上人は茂吉の顔が見えぬといひたまふ 『たかはら』昭5 茂吉49歳 茂吉が14歳までいた金瓶村の生家の隣は宝泉寺。少年茂吉の遊び場であった。宝泉寺は時宗の寺。和尚佐原窿応は当時30代、廃仏毀釈等により衰退気味の 時宗を盛り立てるため奔走した意気盛んな僧侶であった。鎌倉末期、浄土宗の一派としておこった時宗は時衆と呼ばれ遊行、踊り念仏等により庶民教化を行う。 勿論、茂吉の少年時代にこの様な布教活動があった訳ではないがその根本精神は受け継がれていた筈であり、窿応和尚に薫陶を受けた子供の茂吉にもその心は自 ずから染み入った事と推察される。長じた茂吉に現われるディオニソス的傾向はどこか時衆に通じる感がある。そしてそれが自ずからニーチェの哲学に結びつい ていったのではなかろうか。東北の農村の絶対的自然と窿応和尚から受けた精神形成の基盤こそが茂吉そのものなのかも知れぬ。掲出歌はそんな故郷を出て三十 数年後の茂吉と窿応和尚である。共有する交々を感じている二人を素直に見せている。 (2008/ 10/2)
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| 『連山』 昭和5年〜 昭和6年 48才〜49才 →食べ物の歌 →斎藤茂吉 と 斎藤史 葬りを見て詠んだ作 この頁のトップへ |
『連山』ー食べ物のうたー 無量観に塩漬ありて口ひびく辛きを食へば夜ぞ更けにける 『連山』 昭五年(48才) 十月、満鉄の招待を受け、満州各地を遊歴する。この歌は満州随一の名山である千山の古刹、無量観を訪れた折りに詠まれた。 旅順・南山を経て千山の無量観に一泊する。旅順・南山は日清・日露の戦いの地。茂吉はそれらの戦いの跡を辿りつつ、戦死者の果てたる命を「年ふれる壕の 中よりわが兵の煙管出でしと聞くが悲しき」などと詠嘆している。日露戦争後、既に二十数年を経、戦死者の命を過ぎ去った時間の中に塗り込めたような捉え方 である。 冒頭の歌に詠まれている無量観は人々の心の拠であり、一般人はもとより満州馬賊にも多大な影響力を持っていたという。 茂吉が訪れた翌年の昭和六年、満州事変が始まると同時に此処は民衆の抗日運動の心の拠点になったとのことである。勿論、茂吉はそんな一年後を知る由もな い。「口ひびく辛き」は事実の感想であろうが、今読めば、仄かな予感を感じさせる言葉ではある。 ・畑中に人を葬るさまが見ゆ馬ひとつ其処に佇み居りて 『連山』昭五年(茂吉48才) 「帰路十一月十九日午前八時二十分北平発」なる詞書があり、満州旅行の最後に詠まれた歌と思われる。辺境での葬りの様は異邦人である茂吉にとっては異界の 見物だったのだろう。この歌、葬られる人も葬る人々も、体臭を持たないものとして風景の中に溶け込んでしまって具体的な姿を見せない。しかし、傍らには紛 れようもなく一頭の馬が佇んでいる。あたかも世界共通の言語のように。 風景として何時かは消えてゆく人という存在の有り様を真っ直ぐに考えさせる歌である。人間にあくまでも従順な生き物「馬」だけがくっきり描写された由縁 かも知れない。 ・くらき死者よみがへり来る怖れ持ち土葬の 地かたく踏む肉親ら『密閉部落』昭33(斎藤史46才) ・着衣剥がれ最後の見栄を失いし死者の絶望 をわれは見届く 同 疎開先、信州の葬りの風景を詠んだ一連の中の二首である。風景の中の人間の体臭に拘り続ける史なのだろう。 (2006/8/2記) 古への人も見たりき閣のまへの砂に棗の赤き実は 落つ 『連山』昭5 茂吉48歳 茂吉は昭和5年の秋から冬にかけて満鉄の招きで満州、朝鮮を巡る。『連山』には満州旅行45日間の作品705首が収められているが、その後記に、「この 満洲巡遊の歌は、満洲の風物が私にはじめての経験なので、なかなか旨くはまゐらなかつた。」と述べ、それでもその時々に急いで手帳に書きあとで推敲したと 書き如何にしたら大陸的中華的な作品になり得るかに苦労したとも述べている。 掲出歌は北京の郊外の万寿山と昆明湖を中心とする古典皇家庭園で詠まれたものと思われる。閣は仏香閣であろう。庭園の中心的存在で際立っていると言う。 歌の仕立て方は遠景に閣を置き、視点の中心に茂吉にとって身近な棗の実の赤を一つ設定している。つまり遠い代も壮大な風景も棗の赤で茂吉と結びつくとい うことなのだ。樹木は人の及ばない生命力をもって生き続けている存在。その赤い実を一つ置くことで古の人も茂吉も同じ場所に立ち得たのだ。 (2008/11/6)
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