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「飲
食の呼ぶ笑い」
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斎藤茂吉の場合− |
| ・ゆふぐれし机のまへにひとり居
りて鰻を食ふは楽しかりけり ・もろびとのふかき心にわが食みし鰻のかずをおもふことあり ・吾がなかにこなれゆきたる鰻らをおもひて居れば尊くもあるか ・これまでに吾に食はれし鰻らは佛となりてかがよふらむか 茂吉の好物と言えば先ず思うのが鰻である。茂吉は歌集も多く残したが、日常を事細かに書いた日記も多く残しており、それらを手掛かりして、茂吉と鰻につ いても多くの人の検証があり、ある面で笑えてくるような茂吉像を浮かび上がらせている。日記などの記述から茂吉が生涯に食した鰻の数は千匹だとも言われ、 好んで食べ始めたのが四十数歳、大方食べ終わったのが六十数歳とのことである。第二次大戦が始まると戦時下の食糧難を見越し大量の鰻の缶詰を買い込み押入 に保管する等々と常人では考えられない人物像が立ち上がる。屈指のインテリ、大病院の院長、著名な歌人であるという茂吉のイメージと余りにもかけ離れたそ の人間像に思わず笑わされ、そして次に一筋縄でない人間の奥深い切なさにたじろがされる。 一首目は『ともしび』所載の歌で、茂吉四五歳の作と思われる。『ともしび』は、欧州留学の成果を携えての帰国直後からの作品集であるが、父の死、帰国直 前の病院の火災、病院の再興問題など公私ともに多忙すぎる日常であったようである。ゆうぐれ、食卓ではなく机の前でひとりで食べる鰻、傍目にはわびしい風 景であるが、茂吉は楽しいと歌う。茂吉の鬱屈した精神と状況を垣間見る思いを禁じ得ない。この頃から茂吉は鰻のとりこになったようである。 二〜四首は茂吉の晩年近くになっての歌である。一生に食べた鰻の数、こなれて自身の血肉となった鰻、等に思いを馳せている。そして、鰻を尊くもある、佛 となる等と讃えている。馬鹿らしいとしか言えない自己中心的な表現であり思わず笑い出しそうになるが、それだけではない人間としての哀しみに突き当たって 愕然ともさせられる。老人となった茂吉は身辺即時の日常を気負わず飾らず詠んでいながら生命の何かを自ずから表出しているが、これら鰻の歌にもそれを感じ る。 次に鰻以外の飲食に関わる歌を幾つかあげてみたい。自ずからなるユーモアの奥に潜む茂吉の言葉を感じる作品たちである。 ・黴ふきし餅を水の中に入れ今しばらくを惜しみて居らむ 『白桃』昭和八年(五二歳) ・ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり 『白桃』昭和八年(五二歳) 二首とも食物を題材に詠まれ、共通して「惜しみ」なる語が用いられている。一首目の、黴のふいた餅は、余り魅力のある食物とは言えない。反して二首目の 白桃はとても魅力のある食物である。一首目は魅力はないけど暫く惜しもうと詠み、二首目はその魅力を惜しんでいたけど食べてしまったと詠んでいる。二首を 並べると当時の茂吉の屈折した心が痛いほど響いて来る。 当時の茂吉は病院長としても歌人としても、その業績が高く評価され外面的には押しも押されもせぬ地位を得ていた。が内面には『白桃』の後記に「精神的負 傷」と書いた私事、つまり夫婦間の破局という憂慮を抱えていた。この二首の「惜しみて」に、そんな茂吉の「私事」を感じるも、それを表立たさず閉じこめて しまった作品世界が持つ深く厚い陰翳に圧倒される。 ・乳の中になかば沈みしくれなゐの苺を見つつ食はむとぞする 『寒雲』昭和四二年(五五歳) 春まだ寒い彼岸頃の作である。この季節の苺は当時は相当高級な果物であったろう。美しく赤い苺が真っ白な牛乳の中に浮き沈みしている。今では、ありふれ た苺牛乳も当時は誰もが食せる食物ではなかった筈である。「見つつ食はむとぞする」なる気合の入れように、思わず笑ってしまうが、当時の生活水準を思えば 或いはごく自然の行為かも知れないとも感じる。 しかし、茂吉は作歌四十年に於いて「・・熟した苺はいかにも美しい。特に乳の中の苺という美麗なものを自由に食ってしまうことの出来るのは神明以上とい うものである。」と述べている。 そしてやはり、たかが苺牛乳をかくも堂々と詠みあげた背後には、茂吉が老いた身体に閉じこめている熾火のようなエロスがあり、それを重ねた故の大仰で あったことに気づく。 ・はやくより雨戸をしめしこのゆふべひでし黄菊を食へば楽しも『白き山』昭和二一年「六五歳」 二十年4月、郷里金瓶村に疎開し、二一年一月には家族と別れて一人で大石田に落ち着く。が、三月から肋膜のため病臥療養、九月頃漸く快復する。掲出歌は 病から立ち直った茂吉が念願の最上川逍遙等を始めた頃の晩秋の作である。秋の夜は長い。この歌の場合「はやくより雨戸をしめし」と、そんな秋の夜を更に長 くする行為が歌われている。とは言え、「この夕べ」とあらば、いつもの行為ではなさそうである。雨戸を閉めて外観を遮断すれば、内側は外の音の届かない一 人の世界。戦争協力者として茂吉を論う雑音を初めあらゆる世間の声を遮断出来たかのような空間なのである。「はやく〜しめし」と言うことはそんな空間に早 く浸りたくてという事なのかも知れない。「ひでし黄菊」とは板状に乾燥させた食用菊で香りと色が珍重される。「ひでし黄菊」が雨戸の中の世界をぐっと豊か にし、モノクロの世界に一点の色彩を放ち視覚的にも鮮明な作である。 ・わが生はかくのごとけむおのがため納豆買ひて帰るゆふぐれ 『つきかげ』昭和二四年(六八歳) ・われつひに六十九歳の翁にて機嫌よき日は納豆など食む 『つきかげ』昭和二五年(六九歳) 昭和二二年、疎開先大石田から帰京、歌人としての活動を茂吉の個性を失うことなくこなすが昭和二五年夏頃から体調を崩し、秋、左側不全麻痺を起こして以 来急速に気力が衰える。納豆を詠んだこの二首は帰京後、病臥の暮らしとなる前後の作である。一首目は好きな納豆を買って帰る道々、過ぎた人生をあらためて 感じている作。自負もあり達成感もある人生のはずであるが、思い見れば質素な納豆を自分で買いに行くという素朴な行いと同じなのかなあと感慨している。二 首目は病臥時の納豆の歌かもしれない。臥所にいる一人の老人を丸ごと見下ろしている感がある。「機嫌よき日は」が何とも言えない。 納豆は茂吉にとっては子供の頃からの日常食。鰻を初め食べ物に拘り続けた茂吉であるが、体力気力が衰えて大方の食物への欲求が消えた時再び蘇ってきた食 物かも知れない。『つきかげ』には納豆が多く現れる。 「渾」64号 2006年4月1日発行
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