| 土屋文明を読む |
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短歌結社「好日」に入った頃主宰の米田登に訊ねた「先生は誰の短歌が好きですか」と・・・
米田先生は即座に答えられた。「土屋文明やなぁ」と・・・・ あれから四半世紀になるかも知れない、気になりながら手をつけずにきた文明を漸く読み始めている。 きっかけは、友人が短歌の勉強会をしようよと言ったひとこと! 即座に土屋文明をやってみたいな!と答えた。斯くして「土屋文明を読む会」がスタート。 |
| 隔月毎にに課題の一首を各自がそれなりに読んで、400字に纏めてきま
す。 それぞれが書いてきた文章を読み合わせて納得したり疑問点を呈示したり 読むほどになんとなく面白さが分かってきたような・・・・ 米田先生の思いとはかけ離れているかもわからないけれど、なかなか奥が深そうである。 |
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土屋文明 (1890-1990) 歌人。群馬県生まれ。東大卒。「アララギ」編集。清新な抒情歌から生活に即した写実的歌風に移り、 万葉集研究も推進する。歌集「ふゆくさ」「往還集」など。 [ 大辞林 提供:三省堂 ] |
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『ふ
ゆくさ』
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○この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず 明治42(文 明20歳) 伊藤左千夫を頼って上京しその庇護のもとに一
高、東大哲学科へと進学した文明は島木赤彦、斎藤茂吉、中村憲吉らと共に新生「アララギ」に
同人として参加
し、生まれたのがこの作品である。おりしも状況は子規、左千夫と続いた写実の追究から、それぞれが新しい方法を模索し始めた頃であり、茂吉は『赤光』に於
て写実を踏まえた上で写実を越えた西欧的哲学的詩の世界を打ち出し、文明も彼らの影響を受けつつ自己のスタイルを模索している。この歌に戻れば、開かな
かった睡蓮を写実しているのであるが、その背後には三日間を見続けていた作者の視線があり開いては閉じる睡蓮の姿がある。古典的とも云える調べが視線の静
けさと達観の心を醸す。美しい存在が消えたとき人はもう少し激しく主張するのではなかろうか。静かに理性で実体を見ようとする文明の精神をふと垣間みる。
(2007/12/24記)
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『往還集』 |
○父死ぬる家にはらから集まりておそ午時 に塩鮭を焼く 昭和4 文明39歳 先ず「父死ぬる家」なる表現が読み手の心を揺さぶ る。間もなく死ぬ父を読む言葉として並みでないからである。「父」を見取るために訪れたとは詠まず、これから死ぬ父がいる「家」を訪れたと詠んでいる。読 む程に文明に内在する父への確執を思ってたじろぐ。父の死を看取るために集まった兄弟だろうが、恐らく「集まる」ことの稀な兄弟なのだ。仕立て方から見れ ば一首の主語ははらからである。そんなはらからが集い塩鮭を焼く。その背景には間もなく死ぬ父の存在があり、おそ午時が家の中の慌ただしさを、塩鮭が庶民 の貧しい暮らしを表出している。 ○いのちある人あつまりて我が母のいのち死ゆくを見たり死ゆくを 『赤光』大正2 茂吉32歳 一世を風靡した「死にたまふ母」からの一首である。とは言え思いを深く沈潜させきった文明の写実もまた見事である。 ( 2008/2/27)記 |
『山谷集』
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○ただ時にむさぼり食ひて楽しかりき再びなかることぞとも思ふ 昭和6 文明41歳 掲出歌は「服薬久し」なるタイトルの下に〈限られし食物を朝夕くりかえしあはあはとして馴るるにやあらむ〉と〈久しぶりに腹のへりたる夜半ながら白湯を 汲み来て飲みて寝むとす〉の間に置かれており食事療法中の作品であるようだ。 歌意は「何と言うこともないそんな時に、むさぼるように食べたことがあった。あれは楽しかったなぁ!もうあんな事は無いことだとも思うけれど」と言うこ とだろう。食事療養中の飢餓感から派生して、この時代の得体の知れない飢餓感へと思いを馳せて成した作品であるかと思われる。折しも昭和六年は、世界恐慌 が広がり満州事変が勃発し不気味な社会不安が漂いはじめた年である。この歌の下句は、そんな得体の知れぬ庶民の不安感を潜めているように思える。〈ただ時 に〉〈とも思う〉にそのあたりの心が窺えるのである。 (2008/4/7記)
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『山谷集』 |
○枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす 昭7 文明42歳 明治末から、この鶴見臨海地区の大規模な埋め立てが始る。日本経済発展の為に重工業地帯の開発が重要視されたからであり臨海部は物資の輸送に も便利だからである。とは言え、当時も既に公害問題等を危惧する住民の反対も一通りでは無かったらしい。掲出歌が詠まれたのは昭和七年、埋め立てはほぼ完 了し一帯は工業地帯と化していた。「枯葦の中に直ちに」に力づくでなされた工業地帯化への庶民のメッセージが漂う。昭和十二年の運河工事により船舶の着岸 が容易になるのだが、当時はまだ遠浅で汽船の出入りは困難を要したと言う。「今し速力おとす」はその辺りの描写であろう。風景の実写のみの作品である。 又、当時は短歌否定論、口語自由律、プロレタリア短歌等により短歌界は大きく揺れていた。が、文明は自己の方法による写実を実践する事で真実を追究し続け る。 |
『山谷集』
六月風より |
○ある権力がありのすさみに立てし寺人は住みつぐ馬鈴薯を並べて 昭和12 文明47歳 日本が日中戦争に突入する契機となる盧溝橋事件(昭12年7月7日)直後の作。文明は折しも朝鮮の金剛山歌会に出向いており掲出歌は「慶州古都にて」と 題して詠まれている。この前年の二・二六事件以降、日本のファシズム化はいよいよ顕著となり、暗黒の時代へと急進する周囲を常に小市民の側からの低い視線 で冷静に見つめ続ける。 この視線は朝鮮という外地に置いても変わることは無かった。文明の解釈に依れば寺はある権力がそのすさみに立てたものなのである。権力の種類は書かれて いないし問題ではないのだ。兎に角権力がありのすさみに寺をたて、その権力が他の権力に倒される迄、寺固有の権力を持っていたに違いないのだ。とは言え権 力は必ず権力に依って倒される。寺の守護神であった権力が倒された寺はただの建造物、庶民が馬鈴薯を並べて暮らす建物に過ぎない。文明の冷静な低い視線を 真っ直ぐに感じさせる作と言える。 (2008/6/25記)
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『小安集』
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○この母を母として来たるところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして 昭和14 文明49歳 昭和14年、文明の母ヒデは79歳で亡くなる。掲出歌は母の死に接して、自己の生い立ちを追憶・凝視する事から生まれた作品である。『青南集』「母の日 に」からの三首を引く。 ・生みし母もはぐくみし伯母も賢からず我が一生恋ふる愚かな二人 ・母に打たるる幼き我を抱へ逃げし祖母も賢きにはあらざりき ・乳足らぬ母に生れて祖母の作る糊に育ちき乏しおろかし そして中学入学の頃に祖父の牢死という少年の心を打ちのめすに十分な事実を知る。 そんな行き場のない少年の心が出会ったのが文学つまり当時渡来した西欧の
自然主義思想の流れを汲む文学であった。人生にありのまま向おうという文学の方
法をこの頃初めて日本人は獲得したのであるが、文明少年は彼の文学開眼の日に同時にそれを獲得する。丁度、文明が中学入学の頃に島崎藤村の『破壊』田山花
袋の『布団』が発表され、短歌では子規の『竹の里歌』が出版されている。
(2008/8/4記) |
『小安集』
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○音たえて松の幹赤き夕(ゆふ)の時忘れたる所に帰るごとし も 『小安集』文明51歳 「瀬波岩船」と題する五首中の一首。昭和十六年秋、新潟へ選歌に赴いた時の作。瀬波・岩船、今は新潟県村上市、日本海に面した夕日の美しさで有名なとこ ろである。北越の静かな海岸の夕暮れ。〈音たえて〉が全くの静寂を感じさせる。時代は第二次大戦の開戦直前、東京の空気はただならぬものであったに違いな い。同じ地続きであるとは思えない静寂の中に来て夕日に赤く美しく染まる松の幹を見ていたらふと時空が移動した錯覚に陥ったのかもしれない。〈帰るごとし も〉がそれを感じさせる。〈忘れたる所〉とは故郷かもしれないし、戦の影の見えない何時か何処かの世かもしれない。兎に角様々を深く連想させる一首であ る。 人は一瞬ほんの束の間、今居る時空を離れることがある。それは多分、自然の何かを心がキャッチ出来た刹那の時なのだ。 (2008/10/9 記) |
『韮青
集』
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○牛と驢が騾と驢が馬と牛が曳く車つづきて絶えざる朝の市 昭19 文明54歳 文明は昭和19年7月〜12月陸軍の臨時職員として戦線視察が目的の中国旅行をする。先ず北京に到着しその歴史文化の質そして民衆のエネルギーを様々に描 写した後、中国各地を回る。掲出歌は北京から380キロの大同雲岡で詠まれた。戦火の及ばない街の活気をリアルに見せている。驢は驢馬。別名をうさぎ馬と いい耳の長い小型の馬。騾は騾馬。雄のロバと雌のウマの交雑種である。この歌は「馬と驢と騾との別を聞き知りて驢来り馬来り騾と驢と来る」に続く作で、 馬、驢馬、騾馬の違いを覚えた文明が得意げにそれらを使って描写している風に作っている。朝市に集まる様々な荷車。恐らく土埃が辺りを煙らせているだろ う。漢字の国である中国を意識しての漢字の多用だろうか、それにも関わらず韻律が崩れていず、結句の九文字の字余りも気にならないのは文明の技であろう か。 (2009/12/3)
○ 髪少し額に立てし唐子にて樺似つかはしき金盞花一つ
昭19 文明54歳
昭和十九年、7月から12月の戦線視察中国旅行中に詠まれている。戦時下であると言っても中国は広い。激戦地を離れた場所は様々な庶民の変わらない暮し の場所であり、万葉研究者、文明にとっては興味津々の異国の景色だったのかも知れない。中国文化と切り離せない万葉集であるが、研究家らしく様々な植物、 動物、暮しを短歌に残している。 掲出歌は中国の子供=唐子に焦点を当て、特にその髪型に注目している。この唐子は髪を頭の下の方の真ん中で結んで立てていたようである。面白く珍しい風 景であったのだろう。金盞花一つの風情だったと結んでいる。「樺似つかわしき」とは樺の皮の紐で髪の毛を括っていたのであろう、括った樺の紐もよく似合っ て、さながら一輪の金盞花だなあと感じたようである。「樺」は「かには」(桜皮)が訛って変化していった言葉であるらしい。万葉集に於いて「かには」は何 かを結わえる樹皮として詠まれている。 (2009/2/2)
○杖の上に雲雀とまらせ人を分くる少年とも大人ともつかぬ一人 昭19 文明54歳 中国戦線視察の旅の三ヶ月目に訪れた天津市での写生歌であり、「押し合ひて
小鳥を売れる巷里あり糶るものは自らの声をたのしむ」「蜘蛛を売る業あり玉蜀黍の幹より虫を割り出すなりはひあり」の間におかれている。今風に言えばペッ
ト類売買の市であろうか。掲出歌の一人は買った雲雀を杖の先にとまらせて人混みをかき分けて歩いているのだろうか。よく分からない、多分文明も解らなかっ
たのではなかろうか。少年とも大人ともつかぬからもよく分からないがが、この町を眺めるしかない文明の視線が見えてくる。ことさら字余りにし破調にして結
句に一人を置いた所に「山谷集」以来の文明の手法、短歌定形をぎりぎりに守りつつ破調にしても情を廃して客観に徹するを感じる。少年とも大人ともつかぬで
一首を完結すれば、一首の主題は文明の感想に帰結するが一人を置くことで文明の視線から独立した天津の存在感に繋がっている気がする。
-------------------------------------------------------------------(2009/4/6記)
この一首についてよく分からないことを勉強会で話し合い、他の人の読 みをさまざまに聞いているうちに、結論として,この少年は、雲雀を売る立場にいるのだろうということになった。中国では小鳥に芸を仕込んだりすることが好 まれペットとしての小鳥は様々に仕込まれたらし い。市では自分で買っているペットを自由に持ってきて競りにかけるという。子供でもお金を稼ぐことの出来る場だったのだろう。この少年も自分の育てた雲雀 を競りにかけていたのだろう。「分くる」は競りによって買う人と買わない人を分けるということなのかも知れないという意見が正しいような気がする。「人混 みを分ける」と読むと少し無理があるような感じなので気になっていた所である。みんなで読むことの大事を思う。 という状況ならば「少年とも大人ともつかぬ」は子供で あってもお金のために小鳥を売るなどの行為が子供らしさを失わせてしまったという意味のようにと れ、哀感をともなった風景が見えてくる。 作者に聞くわけには行かない風景の真実であるが、言葉から 深く状況を探ることは中途半端な読みではなしえないことを感じさせられた一首であった。 (2009/4/6の会を終えての記)
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『山下水』
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○か弱なる心を日本に生れ来て今日は楽し静かなる水に浮く竹の皮 『山下水』昭和21年 文明56歳 「か弱なる心」とは頼りない状態にある心。「日本に生れ来て」は、日本に生じてという事であるが、背後に敗戦下の「日本」に現われた諸々の状況を抱えて いるフレーズなのだろう。 か弱なる心をのをは下句の楽しに繋がるのではと思う。〈か弱なる心なのに今日は楽しい、又はか弱なる心だなぁ!でも今日は楽しい〉と。つまりをは逆接を 導く接続助詞、或いは心の動きを表す間投助詞でなかろうか。 逃げ場のない心細さが日田の懐かしい風景の中に置かれた一枚の竹の皮を見いだすことでほっと救われた心が詠まれている。流れに一枚浮いている竹の皮にふ とに心が我にかえった。換言すれば、日本なる現状に振り回され続けている己が心を客観視させてくれた竹の皮だったのかも知れぬ。それにしてもすごい破調と 言い回しの複雑な一首ではある。 (2009/6/8記)
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『自流泉』
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○道草の枯るれば白き石の面故人のごとく吾が前にあり 「川戸雑詠八」文明(57歳) 文明は昭和二十二年から二十六年までを疎開地、群馬県吾妻郡川戸で暮す。万葉研究や短歌に関わる活動を続けながらも生きるための農作業中心の疎開生活で あったようである。この疎開地川戸の風景を「川戸雑詠」と題して十三度作品化している。 掲出歌は、その八。世間に少し落ち着きが見え始めた頃。「道草の枯るれば」とあれば晩秋だろう。夏草が枯れたことで隠れていた石が見える。よくある景色 であるが、その石の白を面と感じ、今は亡き人の顔を感じたと詠んでいる。故人と読めば割合に身近な世代の死者を想像するが、故人と読めば遠い昔の人をも感 じさせる気がする。万葉以来の死者に連なる詠み方をしながら実は戦中戦後の旧知の死者たちの顔を思っていたと想像する。〈吾が前にあり〉が石に向う心の切 実さを思わせ、戦時下、人々の視界を見えなくしていたものの存在を「繁茂の夏草」が匂わせる。 (2009/8/6記)
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| 『青南集』
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○ふたたびの火にくづれたる墓石のはや感傷をこえし思ひす 『青南集』文明昭26(61歳) 六年の疎開生活を経て昭和26年南青山に帰り住んだ文明は友人二人と伊藤左千夫の墓所亀戸の普門院を訪れる。掲出歌はその折りの作である。「ふたたびの 火」とは昭和20年3月と5月の東京大空襲のことであろう。亀戸のあたりも二度の戦火で焼き尽くされたと言う。この一首の前に「アス敷きてパチンコ横丁あ りし日の本所茅場町三丁目十八番地」と戦災前のこの町の消えてしまった風景を描写している。焼け残った墓石も随分傷んでいたのだろう。文明はそれを戦災の 傷の生々しさと言うより、「くづれたる」と崩壊を匂わせる語で表現している。左千夫は文明にとっては一生を決定づけてくれた神にも等しい人。だから感傷を 省いて左千夫を感じることの出来ない文明だったようである。そんな文明が久々の墓参で見た墓石の崩れに、時間を感じ更には左千夫への生々しかった感傷の沈 潜を得たのでなかろうか。 (2009/10/7記)
○ふらふらと出て来りし一生にてふらふらと帰りたくなることあり
『青南集』昭34
「故里をおもふ」と題するこの一連は貧しかった少年文明が図らずも上京、伊藤左千夫の世話により図らずも高等教育を受けることが出来、その流れに文学者 としての自己のあることを改めて認識した深い感慨が下敷きにある。つまり他力によって流されてきた生き方あったかも知れぬと言う消しがたい思いで ある。一連には「頬被りして野良へかへる我が姿思ふだけで心安まる」ともあり、頬被りして野良仕事をしている自分を想像するだけでも心が安まると詠み、故 里の貧農の暮しに自己の根拠を残し続けている。 初句の「ふらふら」は流れにまかせて、つまり、確固たる自己の意志の無かった心を感じさせ、下句の「ふらふら」は老文明が郷愁としてふと思う心を表出し ている。微妙に含みのことなる「ふらふら」を重ね重い内容を軽いリズム感で演出した技巧がにくい。 (2009/12/3)記 ○本所(ほんじよ)茅場町(かやばちよう)名はほろびたり炎天の広場はいくつかのバス 発着す 『青南集』文明昭26(61歳) 明治42年、中学を卒業した文明は本所茅場町の伊藤左千夫を頼り上京する。牛飼いとして雇われるためである。中学で既に子規の『竹乃里歌』を書き写した りアカネに投稿したりする多感な文学少年であった文明は左千夫が子規の後継者であることを知っており文学を志しての上京でもあった。左千夫は「馬酔木」を 創刊し、根岸短歌会を開き長塚節、斎藤茂吉、小泉千樫、中村憲吉など若い歌人が育ってゆく。馬酔木はやがてアララギへと移行し、清新的な若い歌人達と左千 夫の軋轢が生じ、主導権が次第に若者達に移ってゆく。それらつぶさに眺め、若者達に惹かれつつも、文明は常に左千夫を心の師とし続ける。茅場町を場として の文学運動である。 本所茅場町、今は江東橋三丁目、町名も変わり、牧場など想像もできない街になった。が、その地点に立つ時、そここそ文明にとっての文学と人生の出発点な のだ。 (2010/2)記 |
『続 青南集』
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○ 草の中に石を求めて道を知る三人踏みし日の記憶おぼろに 『続青南集』昭36(71歳) 「短歌研究昭和三十七年新年号」に発表された「熊野百二十三首」中の作であり初めて大雲取を越えた36年前を回想している。三人とは44歳の斎藤茂吉そ して武藤善友と36歳の文明である。「職はなれし我と災の後の君心あひて古き道を越えにき」と一連にあるようにまさに「心あひて」の大雲取越えであったよ うである。しかし「心あひて」の遠因の一つに共通の師、子規の「再び歌よみに与ふる書」にもある定家があり熊野御幸記があり、更には明治36年に雲取越え をなした長塚節などがあったのではないか推察される。 熊野古道は古からの石畳の参詣道。でも今は大部分が草や土の下に埋もれまさに〈草の中に石を求めて道を知る〉姿。故にこの歌、写実そのものと言える。し かし単なる写実ではなく、定家を節を茂吉をそして自己の歩んできた道を客観し実感している70歳の文明を彷彿とさせるつくりとなっている。 (2010/4/09)記 ○ 老あはれ若きもあはれあはれあはれ言葉のみこそ残りたりけれ 『続青南集』昭38(73歳) 「金槐集読みて知りしより五十五年残る土屋村見むと来たりぬ」「朽ち法師あはれみし実朝同じ山辺に首捨てらるるまで幾年経し」につづく作品で実朝の『金 槐和歌集』に書かれている土屋村なる言葉に導かれて成された掲出歌である。 自己の出自を思わせる土屋村に五十五年前つまり十八歳の頃から惹かれ続けていたのであろう。〈老〉は「金槐和歌集」に詠まれているくちほうし(土屋三郎 宗遠、出家して空阿)であり〈若き〉は二十八歳で甥、公暁に暗殺された源実朝であろう。 土屋三郎宗遠は頼朝の鎌倉幕府成立の功労者の一人であるがその後の内乱で一族の大方を失い失意不遇の晩年となる。『金槐和歌集』には出家して老いた空阿 が実朝と対面し昔語りをする件が記されている。あはれを四度用いて時代と権力欲に翻弄された二人のあはれを強調し、何があろうとも今に残っている「書き取 られた言葉」の重みを深く詠嘆している。 (2010/6/2) |
| 『続続 青南集』 |
○ 古き中に日本を見むとするこころ指くぐり落つる水中の沙(すな) 『続々青南集』中の「三河の海」と題する一連は昭和四十三年、文明、八十三歳の作である。この作は三河湾に面した幡豆町辺りで詠まれた作と思われる。 文明は万葉集の安礼の崎や四極山(しはつやま)などの地名をこの辺りだろうと想像して何度もこの地を訪れているようである。著書『続万葉紀行』の中にそ れを記している。 掲出歌の上句は古き時代の中に(つまり万葉集)本当の日本を見ようとする心と読み取れる。片や、幡豆町には東京裁判で絞首刑となったいわゆるA級戦犯を 祀った「殉国七士 廟」があるのだが、文明はその場所を訪れたものと推察される。本当の日本を万葉集の中に見たいという気持ちは、先の戦争を重ねると一層切実だったのでなか ろうか。 下句は、そのような切なる心も指をくぐって落ちる水中の砂のようにつかみ所がなくはかないものだと詠んでいる。 (2010/08/4)記 |
『青南後集』
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○思ひ出でよ夏上弦(じやうげん)の月の光病みあとの汝をかにかくつれて 昭和50 文明85歳 前年に逝った長子、夏実を悼む老文明の心がもどかしげに表出されている。病弱であった子供時代の夏実との関わりを詠んだ作であるが、先ず初句で〈思ひ出 でよ〉と強く自分自身に呼びかけている。文明の中に思い出さねばならない何かがあるのだ。更に6/7/6/8/7と定型を微妙にずれ流れのぎこちない作と なっていて、すんなりと流す訳には行かない過去の時間が窺われる。 次に〈夏上弦の月の光〉に思うのは万葉歌人達が〈月の船〉と詠んだ七夕の月であり、或いは阿倍仲麻呂が〈三笠の山に出でし月かも〉と詠んだ月である。万 葉研究に没頭していた文明にとって〈夏の上弦の月〉恐らく〈七夕の月〉は見逃し得ない月であったのだ。病み上がりの息子であるが深夜をとにかく連れ出し見 に行ったのだろう。息子に見せるためと言うよりは自己のひたすらな欲求だったのではなかろうか。そのあたりの自己中心的な心を〈思ひ出でよ〉と反芻してい る気がする (2010/10/4)記 |